高校通算63発、165センチの大砲・植田拓 越境入学した盛岡大附での3年間【前編】
盛岡大附(岩手)で2016年夏から3季連続で甲子園に出場し、4本塁打を放った植田拓。身長165㎝と小柄ながら高校通算63本塁打のスラッガーとして、NPBのスカウトからも注目を浴びていた。
卒業後はプロ志望届を提出せずに社会人のバイタルネットに進むも2年目で退社。昨年は四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーし、今年からはルートインBCリーグのオセアン滋賀ブラックスに活躍の場を移している。
手首の手術や娘の誕生など、紆余曲折を経てNPB入りを目指している植田。高校時代から現在に至るまでの道のりや今季に懸ける想いを語ってもらった。
男の修行をしに盛岡大附の扉を叩く

高校時代の植田拓選手(盛岡大附)
大阪府出身の植田が盛岡大附に進むきっかけができたのは、貝塚リトルシニアに所属していた中学2年生の時。練習の視察に来た関口清治監督と面談する機会があり、次のように言葉で誘いを受けたという。
「遠いところに来て、男の修行をしに来い。俺が3年間面倒を見るから」
関口監督の言葉に感銘を受けた植田は盛岡大附の練習の見学にも行き、「雰囲気が良さそうなチームだと思った」と進学を決意。入学早々からレギュラーとなり、早くから中心選手として活躍してきた。
2年夏には初めて甲子園の土を踏み、2回戦で創志学園の高田萌生(現・楽天)から高めに浮いたスライダーをレフトスタンドに放り込んだ。
「ドラ1候補と聞いていて、いざ打席に立ったら、真っすぐも高校生ではレベルが違うなと思いました。そこでホームランを打って、自信がついたというのはありましたね」と甲子園初アーチを振り返る。
甲子園で活躍することで周囲の見る目も変わり、「新チームになってからは中心的に動かないといけない」と中心選手としての自覚が芽生えた。
[page_break:夏の甲子園は満身創痍のなかで大活躍だった]夏の甲子園は満身創痍のなかで大活躍だった

現在の植田拓選手(オセアン滋賀ブラックス)
2季連続の甲子園となった3年春の甲子園でも履正社のエース・竹田祐(現・明大)から本塁打を放ち、高校球界を代表する打者となった植田。しかし、センバツ後に右手首の異変に見舞われる。
「試合で逆方向に打った時に『バキッ』となって、あまり気にしなかったんですけど、練習している間にだんだん痛くなってきたんです。監督に『手首が痛いです』と言って、次の日に病院に行ったら手首の骨が欠けていると言われました」
医者からは手術すれば、3ヶ月で直ると言われたが、それでは夏の大会には間に合わない。結局、手術はせず、痛み止めの注射を打って夏の大会に挑んだ。
試合中はアドレナリンが出て痛みは出なかったが、試合後はアイシングやマッサージで痛みへの対処を繰り返していたそうだ。そんな満身創痍の中でも高校3年生の夏は怪我を感じさせない大活躍を見せる。
特に強烈なインパクトを残したのが甲子園3回戦の済美戦だ。1点を追う9回表には2ボール2ストライクから高めのボール球をフルスイング。「センターフライだと思った」という打球がグングンと伸び、左中間スタンドに飛び込む起死回生の同点本塁打となった。
さらに1点リードで迎えた10回表は無死二、三塁で3ボールという場面だったが、「監督から打っていいというサインが出ていて、僕も打てると自信があった」と外のボールをバックスクリーン放り込んで見せた。
「甲子園は高校球児にとって夢の場所。僕も良い思い出があって、人生の中では良い経験ができました」と3度出場した甲子園について語った植田。卒業後はプロ入りするかと思われたが、手首の状態もあり、プロ志望届の提出は見送った。「3年間で木のバットに対応できるように社会人に行ったら良いんじゃないか」と関口監督に勧められ、新潟市に本拠地を置く社会人野球のバイタルネットに進むことになった。
今回はここまで。次回は社会人・バイタルネットから現在に至るまでの道のりに迫っていきます。
(記事=馬場 遼)