5球団から調査書も「本当に選ばれんの?」

△高校時代の難波さん

 高校3年時は春夏で甲子園に届かなかったが投打で結果を残した難波のもとには5球団から調査書が届いていた。それでもドラフト指名に懐疑的だったという。

「正直、自信もなかったですし『いけたらいいな』くらいでした。プロに興味もありましたけど「本当に選ばれんの?」みたいな気持ちでした」

 運命のドラフト当日、最注目の早稲田実・清宮は高校生最多タイとなる7球団競合で日本ハムへ。その後も履正社・安田、広陵・中村と高校生スラッガーがドラフト1位で指名されていった。その後も続々と指名が続く中、日本ハム4位で難波の名前が読み上げられた。

「選ばれても支配下の下位か育成指名をイメージしていました。4位で呼ばれると思っていなくて、名前を呼ばれたときは本当にびっくりしました」

 晴れてプロ野球選手の仲間入りを果たし、北の大地で新たな一歩をスタートさせたが、入団後は思うような結果を残せなかった。ポジションは高校時代の投手、外野手ではなく、身体能力を活かそうと内野手でプレー。1年目からイースタン93試合に出場したが遊撃手で13個、二塁手で8個の失策と守備の面で苦しんだ。

 一方の打撃ではルーキーイヤーに.225、その後は1割台と成績を落としたが、4年目の21年には85試合で打率.247。徐々にプロの投手に適応しはじめたが、一軍出場は遠く高卒4年目のオフに育成再契約を結んだ。

新庄監督から届いたまさかのDM

 支配下復帰をかけて臨んだシーズン。日本ハムはこの年から新庄 剛志氏が監督に就任し、大きな転換期を迎えていた。現役引退から16年。「BIGBOSS」に登録名を変更するなど、形にとらわれない指揮官のもと、再起をかける難波もアピールに燃えていた。

 チャンスは早速訪れた。キャンプを2軍で迎えた難波は、視察に訪れていた新庄氏の目に止まった。

「キャンプが1週間たったくらいでした。新庄監督が2軍の練習を見に来ていた時に、矢野コーチ(現・巨人二軍打撃チーフコーチ)が自分のことを推薦してくれたんです。そこで新庄さんから『引っ張る打球を打てるように』と言われました」

 指揮官の助言を聞き入れ、引っ張り方向の打球を意識して練習に励んだ。そこから4、5日過ぎたある日の練習終わり。一軍昇格へアピール続けていたさなかの難波に一件の連絡が入った。

「新庄監督からインスタグラムで『引っ張れてる?』とDMが来たんです。そこで『引っ張れています』と返したら『よし明日からBIG組来るか』と返ってきたんです』

 さすがに難波は「え?というか、本当かなって思いました」と首をかしげた。しかしそこから2時間後、マネージャーから一本の電話が入る。「明日から一軍に行くから」。疑心暗鬼だった一軍行きが確信に変わった。

 昇格が決まると持ち味の打撃でアピールし、一軍に定着キャンプも完走。支配下復帰に大きく前進した。

「最後の年はオープン戦でDeNAの山﨑(康晃)投手から打ったり、阪神の村上(頌樹)投手から打ったりしました。一軍レベルの球をヒットにできていたので、打撃は通用すると感じていました」

 しかし、開幕前に前ももの肉離れで離脱。チャンスを掴み切れず、再び二軍からリスタートを切ったが、支配下にあがることはなく同年オフに戦力外となった。「怪我が痛かったですけど、後悔はしていないです」とわずか23歳の若さで引退を決断。プロ生活に区切りをつけてセカンドキャリアを歩み始めた。

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