横浜は、その後の埼玉県で開催された春季関東地区大会でも大島 裕行のいた埼玉栄、多田野 数人がいた八千代松陰、旋風を巻き起こしていた坂戸西を下して決勝進出。決勝ではエースとして館山 昌平がいた日大藤沢との同県対決を制して公式戦無敗が続く。

 そして迎えた夏は第80回記念大会で横浜は東神奈川大会で準決勝では横浜商大高高に25対0などという大勝をしながら、優勝すべくして優勝して春夏連覇を目指す甲子園出場を果たす。

 甲子園では初戦で柳ヶ浦を下すと、2回戦は初戦でノーヒットノーランを達成している杉内 俊哉の鹿児島実との対戦で、序盤のハイライトとも言われた。横浜は6回に後藤の犠飛で1点をリードしていたが、1対0のまま8回を迎える。ここでようやく杉内を捉えて小池のタイムリーに最後はとどめの松坂の2ランでこの回5点。杉内を粉砕した。

 3回戦でも横浜星稜を下して、準々決勝でPL学園と春の再戦となる。

 延長17回の熱闘となるこの試合。ドキュメンタリー番組としても紹介され、この試合だけの分析本も刊行されたくらいに伝説の試合だった。その試合を制した横浜は準決勝の明徳義塾戦では、松坂は先発を回避。回避の背景について、渡辺元智監督はこう語っている。

 「9回に終わって勝っていればそのまま先発でしたが、17回も投げて、打って走っていたんですよね。試合後の談話では『松坂は明日投げさせませんと』。そしたら松坂はインタビューで『明日は投げません』と(笑)。監督は俺だぞ!と。でも宿舎に帰ったら精根尽き果てている様子でしたので、テレビの発言通りで、登板回避させようと思いました」

 4番左翼手で出場するが、チームは6点のリードを許して8回を迎える。

 さすがの横浜も、追い詰められた状況になってしまった。しかし、8回裏に4点を返すと俄然、球場のムードが変わった。この時、渡辺監督は「淡々と試合が進んでいて、どうせなら、最高のメンバーと戦って負けて、帰ろうと思っていたんですよね」と松坂をブルペンに送り出す。

 そうすると、甲子園は横浜、松坂コールの大歓声。そして、右腕のテーピングをはがして松坂がマウンドに登ると、甲子園は俄然と沸いた。

 9回表を抑えると、その裏横浜は奇跡とも言える逆転サヨナラ劇を果たす。渡辺監督の意図を超える逆転劇だったのだ。

 

 そして決勝では京都成章をノーヒットノーランの3対0で下して、春夏連覇を達成して、まさに松坂 大輔は甲子園が生んだ20世紀最後のヒーローとなった。

 横浜は、さらにその後に開催された国体でも優勝している。こうして、松坂世代の横浜は公式戦負けなしで、そのチームを終えることとなる。

 その年のドラフトでは、1位入札で3球団が競合の末、西武ライオンズに入団することになる。