ミスターコントロール・赤星優志(日本大)を確立させた3年間【前編】
9月13日に東都大学野球がスタートし、大きく評価が上がっているる投手がいる。それが日本大の赤星優志だ。2試合連続で完封勝利を挙げた。最速152キロのストレートにカットボール、ツーシームなど複数球種を投げ分け、打者を翻弄する投球術。常に冷静沈着なマウンド捌き。大学生らしからぬ老獪な投手として、注目が集まっている。
今回はそんな赤星の野球人生の歩みに迫っていく。
力試しのつもりでプロ志望届を提出
日大鶴ケ丘時代の赤星優志
小学校1年から野球を始め、投手スタートは6年生から。世田谷区立三宿中(みしゅく)では上馬クラブ(かみうま)でも、投手として活躍。当時からコントロールには自信があり、「細かいコントロールはなかったのですが、とにかく四球を出さなかった投手でした」と振り返る。
西東京の強豪・日大鶴ヶ丘に進むきっかけは、中学校の対戦チームの監督が日大鶴ヶ丘出身で、進学を進められたという。成績も優秀だった赤星は勉強推薦という形で進学をした。
明大前に所在する日大鶴ヶ丘の周りには住宅街が多く、19時までしか練習ができない。朝早くから練習をして、実力を磨く日々だった。ただ赤星は軟式上がりの投手だったため、硬式出身の投手と比べると、身体も小さく、硬式に慣れていなかった。それでも、地道に努力を重ね、1年秋からベンチ入りを果たす。
そして球速面でも大きな変化があった。入学して初めて自身の球速が分かるようになり、最初は130キロいくかいかないかぐらいだったが、最終学年では145キロまで出るようになった。その背景にトレーニングに対する意識が変わったことを挙げる。
「トレーニングも中学までは何も知らない状態でして、高校に入って徐々にトレーニングに対する意識が変わってきて、監督さんから投手メニューのバランスボールを使った体幹トレーニングを教わりました。さらに食事も自分自身で管理するようになって、多めになって、それが成長につながったと思います」
春のオープン戦で最速145キロをマークし大台に乗った。最後の夏では、4回戦敗退となったが、145キロ右腕として名を知られる存在となった。そしてこの年の秋にプロ志望届を提出。プロ1本というものではなく、自分の評価を知るために提出した。
「監督さんと相談をして、将来の目標がプロ野球選手でした。高校3年生の時点で力試しをして、自分の評価を知りたかったんです。その力試しするには、入団テストが一番でした。入団テストを受けるには、プロ志望届けを出す必要があったんです」
入団テストでは3球団を受験した。その中には1球団から合格をもらい、調査書も届いたが、縁がなく、指名漏れとなった。
小さい変化球を習得し、飛躍のきっかけを掴む
リーグ戦での赤星優志(日大鶴ケ丘出身)
ただ入団テストを受けたことは良い体験だったと振り返る。
「3球団のうち1球団では在籍選手と対戦する機会があったのですが、スイングも速くて、身体も大きかったので、高校の時点でまだプロレベルではないなと痛感しました。良い勉強になったと思います」
日本大に進むと、1年冬にキューバ遠征を行う東京都代表と練習試合を行い、先発した赤星は4回1安打6奪三振の無失点の快投。さらに自己最速の150キロをマーク。高校時代から大きくパワーアップした姿を見せた。
入学から取り組んできた体作りが功を奏した。
「入学してから大学生の身体の大きさ、パワーの強さを感じたので、それに負けないよう、少しでも身体を大きくしたい思いからウエイトトレーニングをはじめました。150キロは自分の中で目標でしたので、それが達成できたことは自信になりました」
2年生から先発を任せられるようになったが、成績は芳しいものではなく、2年春は防御率6点台に終わった。
「2年生の春から先発をさせていただいたんですけど、打たれたり、四球で自滅することも多く、苦労したシーズンでした」
その課題を乗り越え、防御率0点台の好投を見せた。
「春はほぼ初めてのリーグ戦でしたので、気持ちの部分で制御出来ていない部分があったんです。先発というのもあって、長いイニングを投げることを意識して、ペース配分を意識していたのですが、それがうまくいかなくて。先発から中継ぎになったことで、1イニング1イニングを全力で投げることが良い結果につながったと思います」
昨年は新型コロナウイルスの影響で、春のシーズンが中止となり、秋のシーズンでは3勝1敗と先発投手として活躍を見せた。
このシーズンから赤星の代名詞とも呼べる曲がりが小さい変化球を習得し、「打たせて取る投球スタイル」を確立するための準備期間となった。
「小さい変化球を練習し始めてから、球数を減らして打たせて取る投球が身について、先発として実績を残せるようになりました」
こうして、一歩ずつレベルアップを果たした赤星。大卒プロを実現させるために、勝負のラストイヤーを迎えた。
(記事=河嶋 宗一)