昭和~平成を彩った公立校 池田高校 明らかに昭和の高校野球で一時代を形成した“やまびこ打線”の破壊力
まさに、「金属バットの申し子たち」それが徳島池田の全盛期を象徴する言葉と言ってもいいものだった。「徳島池田は特殊な金属バットを使っている」「徳島池田は金属バットをベンチ裏で冷ている」など、そんな噂がまことしやかにささやかれるようにもなっていた。それくらいに、金属バットがすっかり定着した80年代前半に徳島池田のバットは快音を響かせ続けて、その音が「やまびこが響くようだ」ということで“やまびこ打線”とも称された。そんな高校野球でエポックメイクだった徳島池田の存在である。
池田の昭和の歴史はそのまま蔦監督の歴史
「IKEDA」の文字でお馴染みの池田高校伝統のユニフォームは未だ健在
徳島池田高校は1922(大正11)年に徳島県立池田中学として創立され、戦後の学制改革でそのまま高校になっている。そして、1949(昭和24)年から共学校となり、三好農を統合したが、すぐに農業科は三好農林として独立している。野球部の創部は戦後で、同好会としてスタートして47年に創部したが、山の中の学校でもあり、練習試合の対戦相手にもなかなか恵まれないということもあってか、すぐに実績を挙げていかれるという状況にはならなかったようだ。
しかし徳島商で活躍し同志社大へ進学し、その後は全徳島などで都市対抗野球にも出場しプロ野球の東急にも入団した実績のある蔦文也監督が、東急を退団して1951(昭和27)年に監督就任。その後、92年に勇退するまで徳島池田一筋で高校野球の歴史を塗り替えるほどの実績を残していく。
つまり、徳島池田の昭和の歴史はそのまま蔦監督の歴史ということも言えるのだ。
蔦監督の徳島池田は比較的早くから実績を示し始める。55年秋季県大会で初めて決勝進出。57年夏には当時の南四国大会に進出。
さらに70年、71年と連続で南四国大会に進出して、三度目の正直で徳島商を下して甲子園初出場を果たす。「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」という言葉を残している。初出場で浜田を下して初勝利も記録した。
そして、徳島池田が最初に大きくスポットを浴びたのが74年春で、初のセンバツ出場はベンチ入り僅か11人で戦いながら1回戦で函館有斗、2回戦で防府商、準々決勝では延長の末倉敷工に競り勝ち、準決勝でも和歌山工に2対0と辛勝。あれよあれよと決勝進出を果たした。
決勝では報徳学園に敗れはしたものの、「さわやかイレブン」とメディアにもてはやされた。しかし、ことのほかさわやかさを強調してクローズアップしていこうとするマスコミに対して蔦監督はこう言い切った。
「爽やかでも何でもないんじゃ。ワシのしごきがきついけんみな逃げ出してしもうて、残ったんが11人だったということだけじゃ」
とはいえ、これで徳島池田は徳島では徳島商、鳴門に続く存在として評価されるようになった。翌75年春も出場したが報徳学園に返り討ちされる。そして、79年は春夏連続出場。春はベスト8、夏は決勝進出。箕島に敗れたが準優勝でこれが、徳島池田時代到来の大いなる助走になった。
こうして迎えた82年夏、エースで4番に畠山準投手(南海→横浜)を擁して、圧倒的打力を看板として優勝。3番江上光治(早稲田大→日本生命)と5番水野雄仁(巨人コーチ)の2年生が強力だった。
荒木大輔投手(ヤクルトなど)を擁する早稲田実が14点も奪われて粉砕され、決勝戦で広島商に12対2と打ち勝った試合が、高校野球新時代到来の象徴とも言われた。
甲子園優勝3回、準優勝2回。今なお輝き続ける池田の実績
甲子園で活躍を見せた水野雄仁(現巨人コーチ)
翌年のセンバツでも、徳島池田の猛打は脅威を振るった。圧巻は帝京との1回戦で14安打で11点を奪い、投げてはエースで4番となった水野投手が完封。2回戦も岐阜第一に10対1。準々決勝も大社に8対0と圧倒した。
そして明徳(現明徳義塾)、横浜商と下して優勝。はたから見ていれば、いともあっさりとという感じで夏~春連覇を果たしてしまった。スクイズなどはいないでひたすら打ちまくったのだ。
もっとも蔦監督はこんなことを言って報道陣を惑わせていた。「ワシは度胸がないけんスクイズをようせんだけじゃ。ほなけん、『打て~』言うて、皆に打たっしょるだけなんじゃ」
徳島池田は、金属バットの特徴を最大限に利用して、全員がバットを長く持って強く振り回して強い打球を放っていた。そのためには、筋力トレーニングなども徹底していったのである。
確かに、この頃から今では当たり前となっている、マシンなどを利用した筋力トレーニングが高校野球で一気に普及していった。帝京の前田三夫監督なども、この負けで「高校野球が変わった」ことを実感して、その後マッチョ体系の帝京の選手たちが出来上がっていくこととなったのである。
夏も、連覇を果たすのではないかと注目されていた徳島池田。空前絶後の夏春夏の3大会制覇が出来る可能性の最も高いチームでもあったのだ。そして太田工、高鍋、広島商と危なげなく下して、この大会では徳島池田の最大の強敵と言われていた中京(現中京大中京)と対戦。
しかし、スコアは3対1だったが、14安打を放って一発の脅威も見せつけた。ただ、次の準決勝でPL学園に1年生の桑田真澄投手に本塁打されるなどで0対7であっさりと敗退してしまった。
ここから時代はPL学園時代に移行していくのだが、それでもまだまだ強い徳島池田は健在だった。85年春はベスト4、86年春には都合3度目となる全国制覇。さらに87年も春はベスト4、夏は2回戦で中京に敗退するが、その翌年夏も出場を果たしている。
いささかボルテージは下がってはいたものの平成になっても1991(平成3)年夏、92年夏にも出場してベスト8に進んでいる。蔦監督は、92年に体調を崩して教え子でもある岡田康志監督代行で出場し、翌年には岡田監督が就任した。
「ノックが打てんようになったけん、もう辞めなあかんな」
蔦監督の引退の弁であった。
その後徳島池田も甲子園から遠ざかっていってしまったが、2014(平成26)年春、27年ぶりのセンバツ出場を果たして海南を下して、80年代には甲子園で耳に馴染んでいた「……たたえよ池高 輝く池高 池高 池高 おおわれらが池高」と、校名を連呼する校歌も勝利校校歌として謳われた。
通算春8回、夏9回の甲子園出場。優勝3回、準優勝2回。通算42勝14敗。まさに輝く池高の実績である。
文=手束 仁
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