負けず嫌いが生んだ速球派右腕への道 寺迫涼生(明豊)
今年の明豊は4人の好投手がいる。長身右腕・大畑蓮、将来的には150キロを投げる可能性を秘めた1年生右腕・狭間大暉、1年生とは思えない完成度を誇る左腕・若杉 晟汰、そしてチーム最速の144キロを投げ込む右腕・寺迫涼生だ。寺迫自身、「大事な場面では任される投手になりたい」と意気込む。その野球人生を振り返っていくと、寺迫の成長は負けず嫌いの一面が支えていることが分かった。
寺迫の急成長をもたらした中田唯斗の存在
キャッチボール中の寺迫涼生
寺迫の野球人生のスタートは他の選手に比べて遅い。幼少期から水泳をはじめ、野球を始めたのは小学4年生の終わりごろ。小学校1、2年生で始める選手が多い中だと比較的遅い方だが、これまで水泳をしてきた経験は生きている。
「自分はバタフライが得意でしたので、肩甲骨は鍛えられました。それは野球に生きていると思います」
中学ではまず最初のボーイズチームに所属したが、中学1年の冬にいったん退部していて、野球をやめていた。しばらくはプレーせず、中学2年の6月に御坊ボーイズに入団するまで、帰宅部だった。
野球を再開し、御坊ボーイズに入部すると、ライバルとなる選手がいた。それがエースの中田惟斗(大阪桐蔭)だ。中田を見て「体も大きく、ボールも速く、すごい投手だなと思いました」と驚き、寺迫は2年冬に捕手から投手に転向したが、始めたときの球速が120キロ前半。中学生にして130キロ台の速球を投げていた中田とは大きな差があり、「ショックを受けました」と振り返る。
ここから中田に追いつこうとひたすらトレーニング、ピッチングに打ち込んだ。中田がピッチングすれば、隣で投げる。
「とにかく中田に勝ちたくて。中田が練習しないときを見計らって練習したりしていましたし、正直さぼれと思っていた時期もありました」
強烈なライバル心をむき出しにする寺迫はめきめきと実力を伸ばしていき、中学3年夏には137キロまで速くなり、中田とともに2枚看板として活躍し、ジャイアンツカップに出場する。
「指導者にいろいろ教えていただき、成長することができました。あの時、中田と一緒に2枚看板と呼ばれたことはとても嬉しかったです」
努力して速球投手へ成長した寺迫。そして小学校時代から憧れがあった明豊への進学を決意。
1年秋に背番号1を獲得した。ではどうやってアピールしたのか。
レベルアップを果たし、エースとして活躍を!!
エースとしての飛躍を誓う寺迫涼生
「最初は登板機会がなかったのですが、新チーム始まった直後、シード決めを決める県選手権で好投を見せて、背番号1をとることができました」
最初はプレッシャーもあった、先輩からも支えもあり、九州大会。しかし冬の期間、腰を痛めてしまう。その間、腰の負担をかけないよう、トレーニングを行い、2年春に144キロまでスピードアップ。春の九州大会ではいきなり聖心ウルスラの戸郷翔征(巨人)と投げ合った。投げ合う前は不安だったが、先輩の一言で吹っ切れた。
「背番号1なのは同じで、昨年甲子園出ていてもこの春は甲子園に出ていないのだから、とにかく胸を張っていけと言われ、気楽に投げることができました」
この試合は寺迫の良さが出た試合だった。普段は135キロ前後なのだが、走者が出たところで140キロ前半の速球で押す投球を見せた。このピッチングの意図について
「自分はあまりコントロールが良い投手ではないので、コントロールを意識して、打たせて取ることを重視しています。大事なところでは力で押すピッチングも心がけています」
またこの大会で優勝した九州国際大附のエース・下村海翔をライバル視。再び練習に精が入り、夏では背番号1を獲得するが、準決勝敗退。「思うようなピッチングができず、チームに迷惑をかけてしまった」と悔しがる。
夏の大会直後、肘を痛めてしまい、秋ではほとんど登板ができずに終わった。ケガしないためにフォームの修正を行った。
「今までは何も意識していなかったのですが、負担が少ない腕の振りに修正し、自分は左足を挙げたとき、体が反る癖がありましたので、反らないように立つことを意識しました」
フォームを改造し、さらに150キロを目指して、トレーナーに話を聞いたり、独学で勉強をしながら、筋肉について学び、広背筋を中心に筋力トレーニング。2月に入ってからのピッチング練習、実戦練習でも手ごたえを感じて、選抜ヘ向けて良い準備ができている。
最後にセンバツへ向けての意気込みをこう答えた。
「明豊にはいろいろな投手がいますが、やはりピンチの場面では寺迫しかいないと呼ばれるような投手になりたいです」
ここぞという場面では俺に任せておけ。そんな強い気持ちが見えた寺迫は初の甲子園でエースにふさわしいピッチングを見せることができるか。
文=河嶋 宗一