4年秋まで公式戦登板0の最速155キロ剛腕・佐藤蓮(飛龍ー上武大)。覚醒のきっかけは自粛期間のフォームチェンジ
佐藤蓮(飛龍出身)
今年の大学生投手は本当に面白い。4年秋までリーグ戦未登板だった155キロ右腕がドラフト候補に挙がっているのだ。その名は上武大の佐藤蓮(飛龍出身)。高校時代も投手として活躍したという記録がない。投手の履歴書を書くことになれば、ほとんどが空白期間だろう。その間こそが佐藤の飛躍の糧となった。評価急上昇中の剛腕の軌跡を追う。
速球が自慢も高校、大学では制球に苦しんだ
小学校の時から体が大きく、中学1年生の時には175センチもあった佐藤。飛龍の入学は「勘違い」から始まった。
中学1年生の頃、当時の飛龍の監督だった濱野洋氏は佐藤が所属していた三島シニアに勧誘のため訪れていた。なんと佐藤を3年生だと勘違いして声をかけていたのだ。当時から175センチと3年生と変わらない体格をしていただけに無理もない。
「ただそこから目をかけてくれて、ずっと練習にも見に来てくれて行こうと思いましたね」
佐藤は中学3年にして最速138キロ。シニア日本代表にも選ばれ、同世代でも目を惹く存在となっていたが、それでも飛龍の想いは変わらなかった。
ただ、飛龍入学後、投手として伸び悩んだ。高校では186センチ90キロと大きくなり、ストレートも最速144キロまで速くなったが、制球力が悪く、2年秋まで5試合登板にとどまった。佐藤は監督と相談し、現状、投手よりも野手のほうが貢献できると考え、3年生以降は野手として出場。佐藤は打者としてもパワーも素晴らしく、高校通算20本塁打も放つスラッガーとしても活躍をしていた。
高校野球が終わり、上武大に高校の先輩がいたこともあり、セレクションを受験し、合格を決め、入学が決まった。
大学では投手としてプレーすることを決めていた佐藤は順調に登板し、1年夏には最速150キロまでに到達。しかしここから不調に陥り、肘も痛めて、2年生になる前の2月には右ひじのクリーニング手術も経験した。
その後も課題だった制球力は改善できず、Bチームでプレーする時間のほうが長かった。
思うように球速が上がらず苦しい日々だったと振り返る。3年生までリーグ戦登板なし。この時までドラフト候補のリストに挙がらなかった。
転機が訪れたのはコロナの自粛期間で投球フォームのコツをつかんだことだった。
フォームチェンジとこれまで取り組んだウエイトトレーニングが身を結び剛腕へ
佐藤蓮(飛龍出身)
佐藤が見直したのは以下の2つだ。
・テークバックを小さくすること
・リラックス(脱力)した状態で投げること
脱力して投げることは投手にとって永遠のテーマ。佐藤はBチームの時にもずっと取り組んでいたことだった。この時、左足を上げたときのグラブを少し落とす動作を取り入れた。そうすると肩がこわばらず、自然に落ちる。
実際に映像を見てみても、極端に落とすわけではないが、肩の力が入らないように心掛けた。
そうすると格段にコントロールが上がり、オープン戦やリーグ戦前のフレッシュリーグで好投。8月の千葉ロッテとの二軍戦では最速155キロを計測した。
球速が上がったことはフォームが劇的に改善しただけではなく、肘の手術後にウエイトトレーニングを精力的に続け、投手ながらベンチプレスは120キロ、スクワットは230キロを持ち上げる筋力があり、現在は188センチ101キロと強大なエンジンを搭載しているだけに、いかに筋肉をうまく動かすトレーニングにも目を向け、フィジカル強化とフォームの見直しが合致し、驚異的な成長を生んだのだ。
リーグ戦当初はリリーフとして活躍していたが、10月3日の新潟医療福祉大学戦では6回を投げて、1失点の好投を見せた。この試合には「最初はよくなかったのですけど、調子を上げることができて、先発としても投げられたのは自信になりました」と手ごたえをつかんだ。ストレートだけではなく、パワーカーブや140キロ前半のフォークボール、スライダーも武器にする。
現在は15イニングを投げて、17奪三振、3失点。課題だった制球力も6四球にとどめており、優勝を決めた19日の平成国際戦では3回を投げて8奪三振と、大きな成長が感じられる内容だ。プロ入りが決まれば、「大事な試合、大事な場面で投げられる投手になりたいです」と語った。
地道に下積みを続けてきた沼津出身の剛腕は将来、アマチュア時代、ほとんど登板がなかった投手とは思えないと言わせるような活躍ができるか。
取材=河嶋 宗一&type=manage_writers">河嶋 宗一