東北福祉大学 【大学時代】

野球一色の高校生活。「寮がめっちゃ楽しくて。ゲームしたり、とにかく寮が面白かったです。学校生活はきびかったですね。勉強もしなきゃいけなかったので。授業は、体育以外は無理でした。先生もみんな野球部のこと好きなんですけど、厳しいんです、逆に。甘えさせてくれないっていうか、野球部なんだからしっかりしろって」。
甲子園が終わると進路を考えなければならなかった。進学先は決まっていなかったが、心には2年秋から憧れていた1つの大学があった。東北福祉大。明治神宮大会に出場した際、大学の部で準優勝していた。
「自分は東京六大学、関東や関西には行きたくなかったんですよ。それに東北の、仙台って魅力があっったんで。そこで強いチームあるんだなって意識し始めました」
「東北福祉大でやりたい」1つの大きな目標を持った。それにしても、運命とはいかなるものか。時期は避けるが、伊藤の「東北福祉大行き」が、先に決まっていた。「福祉に行きたい」と周りに言っていたため、伊藤から「俺、決まっちゃった。お前もこいよ」と軽ーく言われた時、ショックだったことは言うまでもない。だが、甲子園での活躍もあり、憧れて希望した大学でプレーすることになった。
高校3年間、5回ある甲子園出場のチャンスで2度、プレーすることができた。絶対に、甲子園に行かなければならなかった。
2007年1月25日、上越で3日間行われたスキー授業の帰りのバスの中で携帯電話がなった。着信はお父さんから。でも、出られるわけがない。「何?」とメールを打った。
「お母さん、死んだから」-「帰りのバスだから、学校に帰ったら電話するから」
覚悟は出来ていた。「秋くらいに入院して。その時は自分、まだ何とも思っていなかったんですけど、11月の終わりくらいに親父から『お母さん、1ヶ月、持つか持たないかくらいだな。1月の元旦ぐらいだな』って言われていて。でも、2ヶ月もったのかな。病院に行っていて、だんだんしゃべれなくなったりとかして…分かっていたので」
入院してからは練習の合間をぬって、病院に通った。冬休みは練習が終わると、毎日、通った。病院に寝泊まりして看病していたお父さんが迎えに来てくれた。
ちょうど、はい上がろうとがんばっていた時期。
「目標としては、絶対にこのチームで中心の選手になりたいと思っていました。(4番を打つことになって)まさかとか思わなかったですけど、入学当初から思えば、信じられなかったですね」
春はスタンドで悔しい思いをしたが、夏はベンチ入り。
―お母さんのことが活力になった?
「だいぶ、だいぶ、大きいです。甲子園に行きたがっていたので。しかも、高校に入ってから自分がプレーした姿、見せたことがなかったので。やっぱり、それも強く思って、何が何でもベンチに入らなきゃダメだろって」
ベンチ入りを得て、試合に出るようになり、4番を打つまでになった。最後の夏は準優勝まで登り詰めた。
「結果もお母さんのお陰があると思っているんです。高校に入る前、親父が『ダメ』って言ったんですよ、文理に行っちゃ。自分が悩んでいる時にお母さんが『好きなところに行きなさい。経済的なことは気にしなくていいから。私からお父さんには言っておくから、もう1度、お父さんに言ってごらん』って。次、お父さんに言ったら、お母さんが言ってくれたのか分からないですけど、『じゃあ、いいよ。好きなところに行け』って。それもやっぱり日本文理に導いてくれたっていうか、最終的には自分で決めたんですけど、道を開いてくれたのはお母さんですから。なので、福祉大に入ったのも、いろんな大学があったんですけど、何かあると思うんですよ」
何かある――きっと、東北福祉大に導いたのも、お母さんだったと思わずにはいられない。
「準優勝していなかったら福祉に来ていないと思う」
東北福祉大に進学したいとお父さんに言った時、「もう、イケイケでしたよ、甲子園準優勝したんで(笑)『おー、行け、行け。お前の好きなところに行って、プロになれ!プロに!』って感じで(笑)無理、無理、無理と思いながら『お、わかった、わかった』って言って」
いつも背中を押してくれたお母さん。姿はないけど、甲子園での準優勝という結果に、見えない力で東北福祉大へ導いてくれた。そう、思わずにはいられない。
「恵まれているっていうか、幸せだと思いますよ。(大学に)来たくても来られなかった人、結構、いるんじゃないですか。自分が望んだところでやれているし、今のところ、何一つ不自由していないので。幸せだと思います。とにかく、この4年間を大事なものにしていきたいなと思っています」
だから、がんばる。
大学での公式戦デビューはまだ。甲子園で準優勝したチームの4番だからといって、レギュラーの確約はない。しかも、全国各地から集まった猛者たちばかりでライバルが多い。でも、絶対に負けない。