福田 周平(広陵ー明治大ーNTT東日本)「名門チームでの生き残り方」【前編】
今年、中村奨成を中心に、甲子園準優勝を果たした広島広陵。これまで数多くの選手をプロ・大学・社会人に輩出してきた名門校だが、今年も広島広陵出身でドラフト候補に挙がっている選手がいる。
その選手とは、NTT東日本のショートストップ・福田周平だ。広島広陵では選抜ベスト4、明治大では、4年秋に明治神宮大会準優勝を経験。そしてNTT東日本に入社し3年目の今季は都市対抗優勝に大きく貢献し、MVPに当たる橋戸賞を受賞した。まさにアマチュア野球界のエリートコースを歩んでいる福田。いずれも名門チームで、レギュラーとして、そして社会人3年目でドラフト候補に成長した理由は何か?福田の歩みを追いながら、高いレベルで活躍するための考え方に迫っていく。
憧れの広陵で、選抜ベスト4を経験
福田 周平(NTT東日本)
大阪府出身の福田が、広島広陵に進んだきっかけは小学校時代にまでさかのぼる。「当時から僕の知り合いには広島広陵の中井哲之先生とつながりのある方がいて、甲子園で広島広陵を見させていただくことが多かったんです」。
小学校5年生の時、西村 健太朗(読売ジャイアンツ)、上本 博紀(現阪神タイガース)ら率いる広島広陵が選抜大会で優勝したのを甲子園のスタンドで見ていた。このとき福田は、自然と広島広陵でプレーしたいという気持ちになっていたのである。
そして2008年、広島広陵に進学。広島広陵では人間的な面を学ぶことが多かった。
「中井先生は野球のことよりも人としてのことをすごい指導してくださる方でした。野球でミスしてもそこまで怒るような監督ではなく、どっちかというと私生活の部分だったり、学校生活の部分で注意していただくことの方が多かったですね。」
広島広陵で人間的な基礎を学んだ福田が、レギュラーを奪うために取り組んだことは自分のタイプを明確にすることだ。
「僕みたいなタイプはランナーを返すというよりも、出塁をしてホームベースを踏むというところが大事になってくるなというのは高校の時から感じていました。とにかく出塁することというのは常に頭に入れながらやっていました。」
長打よりも打率、出塁率。高校時代に気づいた選手としてのウリが現在にもつながっている。そして福田は有原 航平(現日本ハムファイターズ)らとともに2010年、春の選抜、夏の選手権大会に出場。選抜ではベスト4入りを果たす。福田は、この当時を振り返り「本当にどのチームもレベルの高いチームでした。あと甲子園はすごく大きな球場だなと感じました」と語る。
3年夏の大会が終わり、福田は明治大学への進学を決意した。
自分のタイプを明確にすることが名門チームでレギュラーを取る術となる
福田 周平(NTT東日本)
明治大には全国の逸材が集結する。レベルが格段に上がるその環境下で、福田はどうやって生き残ろうと考えたのか。
「チームで僕が生きていくためにはどういうところを求められているのかということを常々考えながらやっていましたね。やっぱり高校で求められていることと同じだと思うので、出塁して積極的な走塁をしてというところを心がけてやっていました。」
そして2年の春、オープン戦で好調をキープしレギュラーを獲得した福田は、二塁手としてリーグ戦全試合に出場。打率.321を記録し、ベストナインにも輝いた。このときの活躍についてこう振り返る。
「初めは9番バッターで気楽に打席に立てていました。多分ピッチャーもちっこい左バッターが来たなという感じで、どんどんストライクを投げてきてくれたので、そこで甘い球を見逃さずに打てていたなというイメージはあります。」
2年秋は各大学に厳しくマークされ、打率.077と成績を大きく落としたが、3年春になると再び調子を取り戻し「3年生になると、何度も六大学の投手と対戦するので、特徴が分かってきます」と、これまでに得た経験を活かせるようになった。3年春は打率.222だったが、3年秋には打率.362、6盗塁を記録し、復活の兆しを見せる。4年春には打率.333、10盗塁、4年秋にはリーグ戦初本塁打を放つなど、3期連続で打率3割を記録。リーグ戦通算76安打、22盗塁と、東京六大学を代表するショートストップとして活躍を見せた。福田が多くの盗塁を記録できた理由は善波監督の方針にあった。
「善波監督がやりやすいように自由にやらせてくれました。いけたらいけのサインでしたので、どんどん走ることができました。」
大学で日本一を目指していた福田。4年秋には明治神宮大会決勝に進出するも準優勝に終わり、目標としていた日本一にはあと一歩届かなかった。
■「現状に満足することなく、一つ一つ高みを目指すだけ」【後編】に続く
(インタビュー/文・河嶋 宗一)