時代の流れの中でも未だ衰えることなく健在の富山商vs高岡商
富山商(左)、高岡商(右)
2019年の今年、大相撲の朝乃山の優勝とバスケットボールの八村塁のNBA入りしての活躍で、スポーツ界では一躍脚光を浴びた富山県。人口は約105万人で北信越地区では福井県の77万人に次いで少ない。石川県と新潟県に挟まれて日本海側に面している富山県だが、高校(中等)野球では福井県勢、石川県勢の後塵を拝していたという現実は否めない。
そんな富山県で台頭してきたのは高岡商と富山商という二つの伝統商業校だった。そして、この2校の対抗構図は久しく続いていたが、間に魚津や新湊のエポック的な活躍もあり、近年では私学の富山第一や高岡第一も台頭してきている。しかし、そんな中でもここ3年連続で夏の富山大会は高岡商が制し、2018(平成30)年春は富山商がセンバツ出場を果たすなど、やはり高岡商と富山商が県内高校野球をリードする存在として健在だ。
高岡商は1897(明治30)年に高岡市立簡易商業として創立し、1922(大正11)年に県立に移管し、一時的に統合で高岡第二工という時代もあったが、その後高岡商に復帰。学制改革後には高岡西部と称した時代もあったが、1957(昭和32)年に再び高岡商となり今日に至っている。
富山商も創立は高岡商と同じで富山市立簡易商業という同じように経過をたどりながら、同じ年に県立校に移管。一時的に富山南部となった時代もあったが、1953(昭和28)年に現校名に戻り今日に至っている。つまり、両校は学校の成り立ちからその経緯も含めて同じような位置にあり、そういう意味では創立当初からのライバル関係とも言えよう。
野球部の創部は富山商が先で1918(大正7)年、高岡商はその5年後となっている。
富山県で最初に甲子園出場を果たしたのは高岡商で1937(昭和12)年夏だった。さらに、39年夏も高岡商が二度目の出場を果たしている。そして富山商は翌40年夏に初出場を果たす。しかし、県勢としても甲子園初勝利は果たせないままだった。
富山県勢の全国初勝利も高岡商で、三度目の出場となった47年夏に9対8で福岡中(岩手県、現福岡)を下している。その後は、62年夏に甲府工に勝利、68年春に沖縄(現沖縄尚学)に勝利。しかし、甲子園では1勝止まりだった。
富山商の初勝利は春夏通算6回目の甲子園となった67年夏で滋賀の守山に3対1で勝利した。しかし、2回戦ではこの大会で優勝する習志野に2対16と大敗している。
その後の富山県勢としては、78~81年には石動、桜井、新湊、高岡一などが出場し、86年の春は新湊旋風などもあったが、それ以外は昭和の時代、ほぼ交互の様にして高岡商か富山商が出場していった。
それは平成になっても継続されていくが、甲子園出の勝ち上がりということで言えば、なかなか苦戦が続いていた。
それでも2014(平成26)年夏の富山商は二つ勝ってのベスト16。ここ3年連続で甲子園出場を果たしている高岡商も、18年は佐賀商、慶應義塾を下してのベスト16。19年も石見智翠館、神村学園を下して3回戦では優勝する履正社には敗退するものの終盤に粘りと意地を示した。
2019(令和元)年末現在、富山商は春6回、夏16回出場。高岡商は春5回、夏20回という出場記録がある。
ところで、両校を語る上でもう一つ特徴的なのはユニフォームのコントラストである。富山商は長い間、高松商に似たゴシック体で「TOMISHO」と書かれて肩から袖口に濃紺のラインのあるものを使用していた。実は、これは高松商同様に、創部当事に野球指導したのが慶應義塾大だったということに起因していると言われている。現在は白地に立て襟付きでブロック体の「TOMISHO」というスタイルで紺地に3本線のストッキングとなっている。これに対して高岡商はアイボリーに臙脂でいわゆるワセダ文字で「TAKASHO」でストッキングも臙脂と白のツートン。これは、言うまでもなく創部当事の最初の指導甲賀早稲田大だったことに起因しているとされている。
こうした歴史と伝統を感じさせるのも、富山県の伝統校の両雄ならではと言ってもいいであろう。
文=手束 仁
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