阿部慎之助を育てた名伯楽が就任した高野山は前途多難な船出をどう乗り越えたのか?【前編】
高野山真言宗が母体となっている和歌山の高野山高校。野球部は1966年春と1988年夏に甲子園出場経験のある強豪で、近年も2015年と2016年に秋の近畿大会に出場している。
その名の通り、学校は高野山の山中にある。南海電鉄の極楽橋駅からケーブルカーで高野山駅まで登り、そこからバスで10分ほど行くと、高野山高校に到着する。
コロナ禍で全体練習ができず、エースが退部という前途多難の船出
素振りをする高野山の選手たち
校舎の目の前に専用グラウンドがあり、雨天練習場も完備されている。一見すると恵まれた環境のように感じるが、標高約900mの高さにあるため、気温は和歌山県内の他の地域と比べて5~7℃ほど低い。冬場になるとグラウンドが凍結して、満足な練習ができない日々が続くという。取材に訪れた日も前日までに降っていた雪が残っており、朝方はグラウンドが凍っていた。
チームを率いるのは70歳の伊藤 周作監督。中央大の監督として阿部 慎之助(現巨人二軍監督)を指導した経験がある。他にも大正大、名古屋学院大、NPOルーキーズで監督を務めた実績があり、アマチュア球界では名の通った指導者だ。
岐阜県出身で高野山どころか和歌山県にすら馴染みのなかった伊藤監督が高野山の監督になるきっかけを作ったのは地元の住職だ。一昨年のある日、身内に不幸があり、葬儀に参列した。その際に中学時代の野球部の後輩でもある住職から「高野山の野球部が今、大変なので、その気があれば、どうですか?」と言われたのが始まりだった。
当時の高野山は夏の大会前に前任の監督が退任しており、夏の大会でもなかなか勝てない時期が続いていた。以前から高校野球の指導に携わりたいと考えていた伊藤監督は「その気はありますよ」と返答。そこから学校との話も進み、昨年4月から監督に就任することになったのだ。
しかし、就任直後はコロナ禍で全体練習ができず、エースが退部という前途多難の船出となる。その中でも主将で遊撃手の桂飛勇己(3年)やルートインBCリーグ・石川に進む捕手の植幸輔(3年)ら能力の高い選手は何人か残っており、昨夏の独自大会では彼らを投手で起用した。
[page_break:プロ注目の強打者を主将に据えた理由]プロ注目の強打者を主将に据えた理由
伊藤 周作監督
エース不在の苦しい台所事情の中だったが、全員でそれをカバーして2勝を挙げる。最後は投手陣が力尽きて3回戦で敗れたが、6年ぶりに夏の大会で勝利を収めることができたのは大きな成果だった。
新チームは2年生14人、1年生8人の計22人でスタートした。主将に就任したのは三塁手の渡邉 大和(2年)。夏の独自大会では4番に座り、2回戦の向陽戦では[stadium]紀三井寺野球場[/stadium]左翼席に特大の本塁打を放った期待の強打者だ。
だが、渡邉の姿を見て「自分自身に甘えるところがあった」と感じていた伊藤監督は自覚を持たせるために主将に指名。中心選手としてだけではなく、背中で引っ張る役割を渡邉に求めたのだ。
渡邉を主将にしたのは吉と出た。「前キャプテン(桂)に近づくくらい頑張っていますね。このまま夏まで行ってくれたら、必ず去年よりもいい結果が出ると思います」と伊藤監督が認めるほどに成長。秋以降は本気でプロ入りを目指すようになり、取り組む姿勢も日に日によくなっているという。
チーム全体に目を向けてみると、選手層の薄さを伊藤監督は気にしていた。例年に比べると部員数が少なく、怪我人が出ると、一気に戦力ダウンしてしまう懸念があったのだ。
特に二遊間の成長が課題だった。旧チームで二遊間を組んでいた桂と二塁手の片岡 隆(3年)は「和歌山県でトップクラスの二遊間だった」と指揮官が認めるほどの実力者。彼らが抜けた穴はかなり大きかったという。
(取材=馬場 遼)
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