市川 悠太(明徳義塾2年・投手)マウンドに上がれなかったセンバツを糧に【前編】
センバツは第90回、夏の選手権は第100回大会を迎えるなど、高校野球にとって節目の2018年。加えて新3年生となる世代は2000年生まれが大半を占める、いわゆる「ミレニアム世代」。すべてにおいて記念すべき一年を飾るべく、全国各地で逸材たちが活躍の助走に入ろうとしている。
そこで今回はそのトップレベルプレイヤーたちを徹底インタビュー。今回登場して戴くのは2017年秋の高校チャンピオン・明徳義塾の絶対的エース・市川 悠太である。
普段は寡黙な市川投手。しかし今回は「高校野球ドットコム」読者の皆さんへ自らの流儀を前編・中編・後編に渡り語って頂きました。その前編ではマウンドに上がれなかった一年前のセンバツまでの野球歴が語られます。
「夏の甲子園に出るために」で明徳義塾へ
1年生の時から高い期待をされていた市川悠太投手(明徳義塾)
――まずは、野球を始めたきっかけは?
市川 悠太投手(以下、市川):高知市立潮江南小入学時は「特に野球」とかではなく、サッカーとかいろいろなスポーツをしていました。そして2年生の時、友だちに誘われて潮江南スポーツ少年団に入ったのが野球を始めたきっかけです。
最初は捕手をしていました。盗塁を刺すのとかが楽しかったですね。でも、4年生で試合で投手が打たれた時、「肩が強いのでお前が投手をやれ」と言われて……。それからずっと投手になりました。
――小学校時代スポーツテストとかでソフトボール投げとかあったと思いますが、計測値とかは覚えていますか?
市川:60メートルくらいは投げていたと思います。
――ちなみにチームの公式戦成績とかは?
市川:弱かったですね。大会では1つ勝っても2回戦・3回戦で負ける感じでした。
――中学校は高知市立潮江中の軟式野球部。私学に進む選択肢もあったと思いますが、あえて地元の中学校に進んだ理由は?
市川:小学校6年生の時、当時の潮江中野球部監督だった赤崎 (浩平)先生(現:香南市立野市中教諭)に「どこへも行かず。そのまま進んでくれ」と言われたことが動機になりました。
いざ潮江中に進んでみたら岡林 倖生(高知追手前2年)のいた潮江南小や潮江東小の選手たちもそのまま進学してきて、「ホントにみんないるわ」という感じでした。
さらに2カ月したら小学校時代にキャッチボールをしたことがある野村 隆貴(高知東2年) が福岡県から転校してきたんです。 とにかく同級生16人の仲はよかったです。
――市川投手があげた3人も現在、各校で最速137キロ以上を投げている豪華布陣ですね。ただ、声をかけてもらった指導者は入学時にはいらっしゃらなかったんですよね?
市川:そうです。そして1年生の時は溝渕先生、2年生の時は森田 (聡一)先生(現:安芸市立安芸中教諭)、3年生の時は山尾 (竜則)先生。毎年監督は異動で変わりました。でも、僕らは選手間で「全国大会に出て、全国の強さを味わいたい」と練習から厳しく取り組みました。
自主練習ではインナーマッスルの練習。チームではサーキットトレーニング。2年冬に朝練習で約3.5キロ走ったことも高校では活きました。
投球スタイルとしては中学1年の冬に溝渕監督から「スリークォーターにしてみるか?」と言われて腕を下げたのがうまくいって、ストレートは最速136キロ、そこにスライダーがよく曲がっていた感じです。
――結果、中学時代の成績はどうでしたか?
市川:最高成績は高知県大会準優勝。四国大会3位。チームとしてはあと一歩で全国大会には出場できませんでした。ただ、その後に選ばれたKボール高知県選抜では全国大会を経験していた高知中の島内 (勇成・高知2年)がリードで引き出してくれて「第4回15歳以下西日本KWB野球大会」で準優勝することができました。
――ここから明徳義塾高に進むことになるわけですが……。
市川:中学部活を引退後、練習を見せてもらってすぐに進学を決意しました。西日本大会を経験して「自分の力を試すためにはいい環境だ」と思いましたし、「夏の甲子園に出るなら明徳義塾でないと」という想いがありました。
[page_break:古賀さん(東京ヤクルト)から学んだ「腕を振る」]古賀さん(東京ヤクルト)から学んだ「腕を振る」
明治神宮大会期間中の市川悠太投手(明徳義塾)
――2016年4月、いよいよ明徳義塾高校に入学。誰もが最初に当たる「寮生活の壁」はどうでしたか?
市川:実はさほど苦労しなかったんです。中学時代から家事も手伝っていましたし、明徳義塾中の眞鍋 陸(2年・右翼手)や、藪野 走太(2年・内野手)とかとも仲がよかったので、寮生活の準備もできていました。
――練習についてはどうでしたか?
市川:最初に新入生全員を見る練習の時は、ブルペンで投げても自分としては思うように投げられず、球速もさほど出ず「大丈夫かな」と思ったんです。でも、少ししたら(馬淵 史郎)監督さんからフォームの指導を受けて、1年からAチームで投げられるようになりました。
そこでは古賀 雄大(東京ヤクルトスワローズ)さんに引っ張って頂きました。
――古賀さんから学んだことはどのようなことですか?
市川:古賀さんも当初、監督さんから「打たれてもいいから、腕だけしっかり振らせろ」と指示をもらっていたらしいんですが、そこに加えて「変化球はボールになっていいから、ストレートで勝負しろ。腕を振ってこい」と言って頂きました。ここで「思い切り腕を振る」を学ぶことができました。
――1年夏はベンチ入りは果たせませんでしたが、甲子園には練習補助メンバーとして帯同しています。
市川:まず感じたのは「甲子園に出場しているチームは身体が大きいなあ」ということ。僕も入学時180センチ68キロだったんですが、身体を大きくしないといけないと思いました。
[page_break:マウンドに上がれなかったセンバツ」]マウンドに上がれなかったセンバツ
市川悠太投手(明徳義塾)
――ここから1年間は北本 佑斗投手(3年)との左右2本柱でチームをけん引していきます。ただ、秋の四国大会登板は決勝戦最終回1にイニングのみでした。
市川:1年秋の四国大会で背番号「1」をもらったこと自体は気にしていなかったです。1回戦・準々決勝は北本さんが投げるだろうとは思っていました。
北本さんは変化球でカウントを取って、変化球で勝負するような配球や、変化球の出し入れがうまい。ここで変化球の大事さを知りました。
――そしてセンバツ。ブルペンで準備はし続けていましたが、チームは早稲田実業(東京)に延長10回で敗れ、市川投手の登板もありませんでした。
市川:「投げたかった」気持ちが大きかった反面、「投げたくない」気持ちもどこかにありました。清宮 幸太郎(北海道日本ハム)に対しても「もし投げる機会があったら、インコースをどんどん投げていこう」と思いつつも、ブルペンで肩を作りながら結構緊張している自分がいました。
実は9回表に押し出しで同点になった時「出番があるかな」と思った瞬間に足が震え出して……。
――本当ですか?普段はそんなそぶりは一切ないですが。
市川:後にも先にも足が震えたのは人生で初めてです。試合が終わっても投げられない悔しさと同時に「投げていたらどうなっていたんだろう」と思いました。
前編はここまで。中編では春季四国大会前後の苦闘からインパクトを残した夏の甲子園に至るまで。さらに頂点へ駆け上がった秋に抱いた感情が語られます。お楽しみに!(続きを読む)
(文・寺下 友徳)
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