鈴木 貴弘選手(日大三-JR東日本)「春4強・夏制覇に導いた名捕手が振り返るセンバツの思い出」
現在は社会人野球の名門、都市対抗出場17回を誇り、2011年には優勝を果たしたJR東日本でプレーする鈴木 貴弘捕手。日大三時代は甲子園に3度出場し、2年春は準優勝、3年春はベスト4、そして同夏は全国制覇と、輝かしい経験をしている。立教大では主将を務めた鈴木捕手に、3年春のセンバツを振り返っていただくとともに、泥臭く、無心に野球に取り組んだ日大三でのお話をしていただいた。
【動画】鈴木選手が振り返る3年春のセンバツエピソード
アクシデントでも退かなかったのは正捕手の責任感
鈴木 貴弘選手(JR東日本)
鈴木 貴弘が3年春に出場したセンバツは、東日本大震災発生の12日後、「条件付き」で開幕した。大震災直後であるのを踏まえ、1995年の阪神大震災後と同様にブラスバンド等鳴り物入りの応援が自粛となるなど、異例づくしの中で行われた。鈴木が正捕手を務める日大三は、大会第3日目に登場し、明徳義塾と対戦する。この試合、1回戦屈指の好カードであるとともに、明徳義塾・馬淵 史郎監督の甲子園初戦21連勝がかっていた。鈴木は「小倉 全由監督もそれは意識されていて『絶対に負けられないぞ』と気合が入っていました」と振り返る。
鈴木にアクシデントが起こったのは4対4の同点で迎えた8回表だ。場面は無死一、三塁。ゴロを捕った菅沼 賢一二塁手(当時3年。のち日体大)からの本塁へのワンバウンド送球がイレギュラーし、鈴木捕手の顔面を直撃する。
「このあたりにバウンドしてくるな、とミットを出したんですが、イレギュラーしましてね。顔に当たった後は記憶が飛んでしまい、意識が戻った時は四つん這いになっていて…そこで初めて前歯が折れていることに気が付きました。口から血がかなり出ていましたが、痛いというよりも何も考えられなかったですね」
鈴木は治療のために、いったんベンチ裏に下がる。前歯が2本抜け、上下の唇を切っていた。それでも鈴木は退く気は毛頭なかった。
「小倉監督もはじめは『大丈夫か』?と心配してくれていたのですが、治療が終わると『いけるだろ』と(笑)。僕も即座に『いけます』と答えました」
この時のやりとりについて鈴木はこう思っている。
「僕を信頼してくれていたのかと。そのくらいでマスクは譲らないと、僕のことを見てくれていたのかもしれません。高校時代、小倉監督からは捕手としての責任感を叩き込まれました。私生活を含めて責任感のある行動をしないと、周りからは信頼されないよと、よく言われました。交代を願い出なかったのも、正捕手としての責任感からです。今も僕のミットにはこの3文字が刻まれています」
応急処置後にエースを助ける逆転2点二塁打を放つ
応急処置を施してもらった鈴木はその裏、大仕事をやってのける。一死一、二塁から放った左中間への打球は逆転2点二塁打に。試合を決める値千金の一打になった。
「エースの吉永健太朗(早稲田大‐JR東日本)がアップアップの状態だったので、なんとかつなげられれば、と。食らいつくようにバットを振りました。(抜けろ)と思いながら走り、二塁に着いた時は(やった!)と思いましたね」
試合後、鈴木は病院で前歯2本をブリッジで固定、下唇は3針縫った。“甲子園の土を踏むことになってしまった”その2本の歯は、現在も鈴木のさわやかな笑顔を演出している。
「たまたま[stadium]甲子園球場[/stadium]にケガで抜けた歯を救急保存するティースキーパーという液がありましてね。試合中そこに入れておいてもらったおかげで、神経は死んでしまいましたが、見た目は元通りになりました」
もっともその晩は「試合時は感じなかった激痛が走り、口を閉じて寝られませんでした。起きたら枕元には血がべっとりついていた」そうだ。2回戦の静清高戦はエース・吉永が8安打されながらも粘り強く投げ、1失点完投。鈴木も良くリードした。鈴木は吉永をどのような投手だと見ているのか?
「吉永は(最速149㎞と)スピードもありますが、左打者へのシンカー、そして右打者へのカーブ、スライダーが大きな武器だと思います。いい変化球があるからストレートが生きるのでしょう。ただ調子のバロメーターはあくまでも真直ぐ。ストレートで腕をしっかり振れている時は変化球のキレもいいのです」
吉永とは同じ東京六大学の別々の大学に進むも、社会人で再び同じユニフォームに袖を通すことに。鈴木は「吉永とまたバッテリーが組めると知った時はゾクゾクした」という。
「吉永は大学1年春にいきなり投手三冠や大学選手権MVPになりましたが、その後は苦しんだ。再生の手助けができる。そう思うと嬉しかったですね」
準決勝で完敗した悔しさが夏の全国制覇につながった
日大三時代の鈴木 貴弘選手
準々決勝の加古川北高戦では先発全員安打と打線が爆発。13対2で大勝した。この年の日大三には、前年春のセンバツ準優勝も経験しているタレントが揃っていた。横尾 俊建(慶応大-北海道日本ハム<関連記事>)、主将の畔上翔(法政大-HONDA鈴鹿<関連記事>)、そして髙山俊(明治大-阪神<関連記事>)は旧チームでもレギュラー。1年秋は第2捕手だった鈴木も、準優勝したセンバツから実質的な正捕手になっている。また吉永も控え投手として2年春も甲子園のマウンドを踏んだ。こういう精鋭ばかりのチームは得てしてまとまりにくいものだが、鈴木によると「そんなことは全くなく、みんな同じ方向を向いていた」という。
「“日大三名物”の冬の強化練習を一緒に乗り越えたからでしょうね。2週間休みなしで続く“恒例行事”はキツイの一言で(笑)、これを乗り越えられたら精神的にも強くなれると、とにかく毎日必死。終わると達成感から自然と涙が出てきました」
それぞれのステージで活躍している日大三同期の存在は、「野球をしている以上、プロを目指したい」と言葉に力を込める鈴木のモチベーションにもなっている。
「やはり気になりますよね。誰かが結果を出せばもちろん嬉しいですが、自分もやらねば、と思いますから」
そんな鈴木にとって、いやチームにとって忘れられない悔しい試合になったのが、九州国際大付との準決勝だ。日大三は2対9で敗れた。
「ただ試合展開そのものはよく覚えていないんです。あっという間に終わってしまった感じで…後半に3点取られたのも覚えてなくて」
鈴木は続ける。
「相手の勢いに呑まれてしまい、完全に実力負けでしたね。投打とも実力差はなかったとは思うんです。ですが、ここという時の集中力や気迫が、九州国際大付の方が上だった。実は準々決勝の後、チームの中で“これで最後まで行けるんじゃないか”という声がちらほら聞こえてきまして。そういうところも甘かったような気がします」
宿舎に戻っても誰ひとり口を開く者はいなかった。やがてミーティングが始まり、小倉監督の話を聞いているうちに、選手たちの頬に涙が伝わった。3年生にはまだ夏が残っていたが「最後の夏の大会で負けた後のような心境でしたね」。それでも「九州国際大付戦の悔しさが、夏の全国制覇につながった」と鈴木はキッパリ。
「あの試合に限った話ではありませんが、勝てない時、うまくいかない時が、チームや個人を成長させてくれると思っています」
ワンバウンド捕球の技術を高め、背番号を勝ち取る
鈴木 貴弘選手(JR東日本)
鈴木は日大三を「甲子園に一番近い学校」と考え、進学先に選んだ。中学時代は強豪・海老名リトルシニアで2年時からレギュラー。強肩の捕手として、強打者として、その頃から注目されていた。しかし日大三に入ると度胆を抜かれる。3年生と新入生の鈴木では、体つきもバッティングのパワーも大人と子供。鈴木は「すごいところに来てしまった、とビビりましたね(笑)」と述懐する。
どうすればこの中で背番号を勝ち取ることができるのか?考えた末、鈴木はワンバウンド捕球の練習に取り組み始める。
「入学したばかり頃は、先輩のキレがいい変化球がバウンドすると止められなかったんです。でもそれでは投手が安心して投げられませんからね。打撃よりもまずは捕球技術を高めようと、ひたすらワンバウンドを止める練習をやりました。捕手出身の三木 有造部長からはよく『ワンバウンドをしっかり止められなければキャッチャーじゃない』とハッパをかけられましたね」
やがてワンバウンド処理の技術が向上すると、小倉監督に認められ、1年秋には背番号「12」を手にする。前述の通り、鈴木は2年春のセンバツで準優勝を経験。3年春は全国ベスト4で、その夏は全国制覇と輝かしい高校野球生活だった。3年夏の光星学院との甲子園決勝では本塁打を放っている。
「確かに恵まれた高校時代でした。でも、たとえ全ての大会で1回戦負けだったとしても、僕は日大三に行って良かったと思ったでしょう。小倉監督のもとで野球ができて良かった。そう思ったに違いありません」
東京六大学の立教大に進んだ鈴木は3年春から正捕手に。4年時にはキャプテンに推挙された。そして卒業後の昨年より、社会人野球の名門・JR東日本でプレーしている。日々猛練習に励んでいるのだろう。「大学ではもっと自由な時間を練習に充てるべきでした」と反省の弁を語る鈴木の顔つきは、大学時代よりも引き締まっているように映る。今年は2度目の都市対抗優勝の一翼になるつもりだ。
インタビューの最後に、鈴木選手から球児に向けてのメッセージをいただきました。
「泥臭く、無心にやるのが高校野球だと思います。どうせやるなら1日1日を大切に、全国優勝を目指してください。そして『上』でプレーすることを目標にしてほしいですね」
鈴木選手、ありがとうございました!
(インタビュー・文/上原 伸一)
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