揺らがぬ「日本一」の志 自ら考え、行動する人間になれ! 神村学園女子硬式野球部【前編】
「20年前に比べたら、女子野球のレベルはかなり上がりました」
橋本徳二監督は言う。日本の高校で最初にできた女子硬式野球部の監督に就任した1997年から20年余りの間で女子野球のレベルが格段に向上したことを肌で感じている。
特に女子プロリーグができた2010年以降、この10年間が顕著だ。ただ皮肉なことに裾野が広がり、レベルが上がったのと軌を一にして、神村学園は全国大会で勝てなくなった。全国制覇は春3回、夏6回の計9回を誇るが、07年の春選抜以降、優勝から遠ざかっている。
ライバルの登場、選手勧誘の難しさ、練習環境や試合経験…様々な要因は考えられるが、彼女たちの「日本一」を目指す志はいささかも揺らぐことはない。
野球経験者ゼロからスタートした神村学園女子硬式野球部
高校女子硬式野球部の老舗・神村学園が再び日本一奪還を目指す!
「『98年4月に女子の硬式野球大会が[stadium]甲子園[/stadium]で開催される』という記事がどこかの新聞に出て話題になりました。『ならば!』ということで最初に手を挙げたのがうちの学校だったそうです。もっとも実際には[stadium]甲子園[/stadium]で開催されませんでしたが…」。橋本監督が設立の経緯を語る。
天理大卒業と同時に教員として神村学園に赴任。全国各地からやってきた「1期生」は8人だった。その頃の選手に野球経験者はいなかった。ほとんどがバスケットボールやバレーボールなどからの転向組。
唯一ソフトボール経験者が栃木からやってきた小林千紘である。のちに明治大に進み、女子で初めて東京六大学リーグの公式戦のマウンドに上がった小林は「女子で130キロ出した!」と話題になり「女・松坂」として注目された。ちなみにこの130キロは非公認のもので「実際は115キロぐらいだったのでは? あの頃、女子の球速は平均90キロぐらいだったので、小林の115キロが特別速く感じられたのだと思います」(橋本監督)。
時を経た今は女子でも120キロ前後を投げる投手はさほど珍しくなくなった。この20年のレベルの向上を象徴している。
女子の大会が産声を上げた同時期に、高校で女子の硬式野球部を立ち上げたのは神村学園のほかは埼玉栄、花咲徳栄など全国で5校だった。大会には20チームほどが毎年出場していたが、ほとんどがソフトボール部で硬式野球を兼務しているチームだった。
本気で硬式野球をしたい選手の受け皿が限られていたから、全国から優秀な選手を集めることができた。全盛期の頃は厚ケ瀬美姫(京都フローラ)、里綾実(愛知ディオーネ)ら、のちの女子プロリーグの草創期を彩った実力者がいた。
選手獲得競争は厳しさを増す
奈良・天理高、大出身の橋本監督
10年にプロリーグができてからは、女子野球の裾野が急速に広がっていく。長らく5校しかなかった女子硬式野球部を持つ高校は、19年現在で準備中も含めて38校になった。「小中学生で軟式、もしくは硬式野球を経験している女子の数も増えました」と橋本監督。
現在、神村学園に入部する部員もほとんどが野球経験者。たまに「中学はソフトボール」という選手もいるが、学校に野球部がなかったからで小学校は野球をしていたという。裾野が広がり、レベルが上がったことは球界全体にとって好ましいことには違いない。
ただ全国各地にチームができたことで関西や関東のライバル校に有力な選手が進むようになった。以前は「選択肢が少なかった」から九州南端の鹿児島までやってくる選手もいたが、身近なところに、環境も充実した学校があればそちらを選ぶのは当然の心理だろう。
15期生が3年生の頃、3学年で55人の部員が最多だったが、現在は3学年で22人。地元・鹿児島など九州出身者が大半を占める。今や折尾愛真(福岡)、秀岳館(熊本)と九州にも硬式野球部を持つ学校ができ、選手獲得競争は厳しさを増す一方だ。
関東や関西では定期的にリーグ戦が開催されており、女子同士の真剣勝負をする機会がある。神村学園の場合は女子と練習試合をしたければ福岡や熊本まで遠征しなければならない。日頃は地元の中学男子の硬式チームと練習試合をしている。試合経験はそれなりにあるが「女子との真剣勝負が少ない」(橋本監督)のはチームを強くする上でネックになっている課題の一つだ。
前編はここまで!後編では野球部の現状などに迫っていきます!
(取材・政 純一郎)
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