新しい勢力地図を形成する中、伝統の日大山形が奮闘して混戦(山形県)
隣接する新潟県に並んで、かつて高校野球の全国大会でのワースト記録を争っていたのが山形県だ。県議会で「県内の高校野球を強くするにはどうしたらいいか」ということが議題になったこともあるくらいだ。県議会で取り上げられる直接のきっかけとなったのは、東海大山形が2度目の甲子園出場を果たした1985(昭和60)年の夏のことである。相手が優勝候補のPL学園に7対29という記録的なスコアで敗退したからでもあった。全国大会である、いくらなんでもこの得点差はひどいということだったのだろう。これだけでも、野球後進県といわれても誰も文句が言えなかったというのも確かである。
山形の高校野球の歴史
東海大山形は翌年も春夏甲子園に出場し、夏は京都商(現京都学園)に負けたとはいえ0対1というスコアだった。さらに翌年は待望の初勝利を挙げ、2回戦も勝って汚名を返上した。県議会の成果も何らかの形であったということがいえそうだ。それから、30年の歳月の間に山形県の高校野球は格段の進歩を遂げている。歴史的には、その当事者となった東海大山形に対して、県内の対抗として日大山形が存在していた。というよりは、山形県の高校野球の先駆的な立場としては戦前の山形中(現山形東)を除くと日大山形が筆頭である。甲子園の歴史でいえば、日本復帰以前の沖縄代表の首里に初勝利を献上したことでも話題になった。ちなみに、この時点で山形県勢は甲子園での勝利はなかった。だから、実は未勝利県同士の戦いというわけだった。
山形県の高校野球を引っ張ってきた日大山形
結局山形県の初勝利も日大山形だった。その10年後の春で、エース熊谷 篤彦の踏ん張りで鳥取県の鳥取境を下しての勝利である。その年は夏にも甲子園初勝利を果たす。こうして山形県というと日大山形という時代が続いていく。そして、それに対抗してきたのが鶴商学園(現鶴岡東)で、東海大山形はいわば第三勢力という形だった。こうして、私立のこの3校が競い合って時代を作ってきた。
とはいえ、甲子園に出場が決まれば決まったで、勝ち負けよりも、まともな試合をしてほしいというのが県高校野球関係者の祈りでもある時代があった。
それが、今や山形県の高校野球関係者にとっては、常に全国でどう勝っていくのかということを見据えられるくらいになっている。その基本的なステップとなったのは、04年春に初のベスト8に進出した東海大山形だった。さらに、翌年の春にはさらに一つ上を行ってベスト4に進出した羽黒の活躍も大きい。
酒田南の台頭と混戦模様
あじさいスタジアム(新庄市民球場)
県勢として着実に甲子園に出場し、全国で対等に戦いプロ野球選手も輩出していったのが酒田南だった。
酒田南は大阪の強豪校上宮と同じ系列の宗派ということもあり、野球部強化にあたって上宮に相談。その結果として、上宮出身の西原 忠善監督が就任。酒田南は監督ばかりではなく、選手そのものも関西から送り込んでもらうことによってチームの底上げを果たした。初出場の97年には、ほとんどが山形県の出身だったが、2度目の甲子園となった99年のレギュラーはバッテリー以外全員大阪出身だった。思い切った1年生の起用などもファンを驚かせた。以降4年間は山形県の甲子園出場は酒田南が独占する。こうして、酒田南の圧倒的な強さは山形県の他の学校に刺激を与えていくようになっていく。
この間、もっとも酒田南に抵抗を示したのが羽黒だった。やはり、他県出身者を受け入れて強化していくというシステムをとっていた。まさに、酒田南に追いつけ追い越せということで、強化をし始めてからは強烈に酒田南を意識していた。酒田南が関西出身の生徒が多いのに対して、羽黒は神奈川で少年野球を指導していた竹内 一郎監督の関係で神奈川、千葉などの出身者が多いのが特徴となっていった。加えて、ブラジルからの留学生も含めて積極的に受け入れるようになり盛夏を発揮してきた。03年夏に悲願の甲子園初出場を果たすと、竹内監督から横田 謙人監督に引き継がれ、アメリカ仕込みの横田監督はさらに国際色を増していった。羽黒は05年春には勝つべくして勝つという堂々とした戦いぶりでベスト4へ進出して、「強い山形」を完全に全国の高校野球ファンに印象付けた。
この2強に対して、実績では県の高校野球を支えてきた日大山形も対抗して翌06年夏は開星、仙台育英、今治西と常連校を下してベスト8に進出。さらに、13年夏には日大三、作新学院、明徳義塾と全国制覇の実績のある強豪校を相次いで下しながらのベスト4。この山形勢の躍進で、全国的に地域差が無くなってきたということが認識されていったことにもなる。
また、10年には21世紀枠代表として選出された山形中央が、夏は自力で初出場を果たして気を吐いた。山形中央はその後も13年春と14年夏に出場、県外生も含めた戦力強化の私学勢が上位を占めていく中で、体育コースも設置している公立普通科校として健闘を示している。15年秋季県大会も酒田南に敗れはしたものの準優勝。準々決勝では日大山形にコールド勝ちするなど力を示している。
15年夏には鶴岡東が4年ぶり4回目の出場を果たしたが、酒田南が一人価値の様相もあった時代から、伝統の日大山形が巻き返し、現在は数校で競い合う混戦の構図となっている。他には新庄北、米沢中央に上山明新館や九里学園といったところも上位をうかがえる存在となってきている。
(文:手束 仁)