第55回 東北福祉大学 吉田 雅俊 選手2010年08月10日

第92回甲子園大会記念企画!!~甲子園を沸かせたヒーロー達~
第55回は、東北福祉大学 吉田 雅俊選手です。
当たり前だけど、野球は、最低でも9人が必要だ。一人の力だけで勝ち上がるのは難しい。
1年前の夏。新潟県を制し、甲子園に乗り込むまでは、49地区代表の1校にすぎなかった日本文理。それが、日を追うごとに、「え?新潟が?」と高校野球史を揺るがす快進撃を続けた。
甲子園の決勝に進んだだけでも快挙とされたチームが、その決勝戦でまた、ドラマチックな試合を創り出した。中京大中京との決勝戦。6点を追う9回表に1点差まで詰め寄る、驚異的な粘りを見せたが、勝利まではあと2点足りなかった。それでも、たくさんの人々の心を震わせた1戦だったはずだ。
新潟の高校野球史を変えたチームの4番の素顔に迫る。
吉田 雅俊

あらゆる出来事を力に変えて、吉田雅俊は4番の座を射止めた。高校最後の夏、決勝戦に進出したチームの打線の“顔”。目立った活躍はなかったが、それはそれで、いい味を出していた。目立ちすぎない4番。それが、つながる打線のキーポイントだったのかもしれない。
1991年4月15日、伊藤より1日早く生まれた。2つ上に兄、3つ下に弟という、三兄弟の真ん中。「今に比べると、だいぶ、やんちゃでしたよ。弟の友達にちょっかい出していじめていました。あとは、ぬか(米殻)に飛び込んだり。でも、入るたびに後悔していましたね、チクチクして(笑)とにかく、外遊びが大好きでした」。実家は兼業農家だという。
「タメはそんなにいなかったんですけど、先輩とかと神社で野球をやっていました。神社が結構広くて、こんにゃくボールで野球をやっていました」。
友達のお兄ちゃんたちに交じって、楽しく元気に駆け回った。野球を本格的にやろうとは思っておらず、「遊び」の中の一つにしかすぎなかった。
それが、ちょっとしたきっかけで少年野球チームに入ることになる。
「兄貴の野球チームを見に行っていたら監督さんに「お前もやれ」って言われて」
4年生でチームに入った時、兄は6年生にいた。最初に守ったポジションは外野。6年生が引退するとキャッチャーになった。
小合中学時代はNGMシニアでプレーした。
「隣町のシニアで、親には反対されました。幼なじみが入るということで『お前もどうだ?』って誘われて見に行きました。でも、親を説得しても断られたんです。でも、『遠いし、お金がかかる。そんなところに行ってもダメ』って言われたんです。でも、『頑張るから。途中で辞めたりしないし、最後までやり抜くから』と言って、説得しました」。
練習は毎週水、木、土、日。水、木は18時から20時まで室内練習場で、土、日は練習試合が組まれたり専用のグラウンドで一日練習したりした。
「厳しかったです。走る系が多くて、ノックが厳しかったですね。守備重視で、バッティングより時間を使っていました」
それでも、バッティングは好きだった。「軟式バットから硬式バットになって、最初、バットが重かったです。思うようにいかなかったんですけど、家でも素振りして、妥協しないでやっていました。練習も素振りが多かったんですけど、妥協しないで。監督とか見ているので、気を抜けなかったっていうのもあるんですけど、それプラス、1年生の時、試合に出ていなかったので、2年生になったら出たいっていう気持ちが強かったです」。
努力が実り、2年生になると試合に出るようになった。
学校では、一緒にシニアに入った幼なじみと卓球部に所属した。「今でも普通の人より上手いと思いますよ」と笑う。全校生徒が100人に満たない学校で、男子が入れる部活はサッカー、野球、卓球、吹奏楽のみ。サッカーは強豪で、野球は硬式をしているから入れず、「吹奏楽は・・・」。消去法で卓球部だった。また、「道具も買わなくてよかったから」。ラケットは学校にあるのを使用すればよかった。練習は「ちょこちょこ出ていました。たまには出ないと先生に怒られるので」。当然、試合に出たことはない。「さすがに、毎日、練習していたやつにはかなわないですよ」。

シニアが終わると遊びまくった。
「夜に家を抜け出して、ばれないようにですよ。自分の部屋、1.5階みたいなところにあるので下に飛び降りられるんです。ちょっと足が痛いですけど。「もう、寝るから、おやすみ」って言ってから窓をそっと開けて、ピョンと飛んで。忍び足で小屋まで行って、自転車に乗って。花火したり、川で夜釣りしたり。友達の家での泊まりも覚えました。あれ、楽しかったですね。5、6人くらいで朝までしゃべって」。
スリル満点の夜遊びは楽しかった。遊びの楽しさで充実感はあるけれど、進路には迷っていた。そんな頃、日本文理が北信越大会で優勝。センバツ出場をほぼ決めていた。「県大会でも敵なしで強いなと思って。自分、とにかく甲子園に行きたかったので、甲子園に一番近いかなと。文理がだいぶ、輝いていたんで。ここしかないって思って」
しかし、シニアの時のように親の壁が立ちはだかった。「これまた、親に言ったんですけど、私立なので、経済的に厳しいって、しんみり断られて・・・迷ったんです。シニアの地元にあった五泉と迷ったんですけど、最後は『好きなところにいけ』って言われて。最終的に薦めてくれたので、文理に決めて、一般推薦で受けました」。
無事、合格。晴れて、憧れて門をたたいた日本文理で、甲子園を目指す高校野球生活がスタートした。