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- 新田 大輔(徳島インディゴソックス)「学び」を重ね「NPBに入る」
第739回 新田 大輔(徳島インディゴソックス)「学び」を重ね「NPBに入る」2018年08月04日

【目次】
[1] 「前田 大成」を意識し続けた徳島北高時代
[2] 「学び」を重ね「NPBに入る」
190センチ右腕・前田 大成(山梨学院大)との大型右腕コンビで鳴らした徳島北の最速143キロ腕・新田 大輔。しかし、彼にとって最後の夏は、ついにオロナミンC球場のマウンドに上がることなく終わりを告げた。
そして今、新田は背番号「58」を背に、インディゴブルーのユニフォームに袖を通そうとしている。地元の四国アイランドリーグplus徳島インディゴソックスに練習生として入団した新田は、その後、選手登録され、前期で公式戦登板。そして8月3日の高知FD戦で、7回無失点の好投を見せ、今後に期待を持たせた。徳島のホープになりつつある新田にNPBを目指すようになった経緯と期待に応える「覚悟」を聞いた。
「前田 大成」を意識し続けた徳島北高時代

徳島北高卒1年目で勝負をかける徳島インディゴソックス・新田 大輔投手
―― Q.徳島インディゴソックスの地元・徳島県北島町出身の新田投手。まず、簡単に球歴を振り返ります。野球をはじめた時期はいつですか?
新田 大輔選手(以下、新田) 高校まで野球をしていた父(裕司さん)と北島小2年生の時、テニスボールでキャッチボールをしたのがきっかけです。
ただ、3年生の時にチームには入ったんですが初戦は「0-36」。それと野球ばかりで範囲を狭めたくなかったので、2カ月でチームは辞めて平日は母(昌子さん)の経営していた学研の塾に通いながら野球は父の組んだメニューを行って、休日は吉野川の河川敷で4時間ほど父と練習しました。
――Q.ということは、はじめから中学では野球を始めるつもりだったのですね。中学は北島中……。
新田 いや、最初は受験して生光学園中に進みました。ヤングリーグに所属する野球部で外野手をしていました。そこから中学校2年の時に北島中に転校して投手に転向したんです。
――Q.そうなんですか!北島中ではどんな選手だったんですか?
新田 この時の監督は北原 雄大先生。弟さんが北原 郷大さん(穴吹~亜細亜大~JX-ENEOSで2016年引退)でした。ですので、監督からもそうですし、オフに帰ってくる弟さんからも投球技術や野球を真剣にやることでの楽しさを教えて頂きました。この時は全国中学校体育大会に出た板野中が強くて、僕らは県ベスト4・16どまりだったんですが、すごくいい日々を過ごせました。球速も131キロまで出ていました。
――Q.高校は地元の進学校・徳島北に進みました。
新田 中学時代も勉強はしていましたし、友人も多くが徳島北志望。加えて当時の僕は自分の名前を知らない監督さんの前でアピールできるタイプでもなかったし、特色選抜で合格できるレベルだったので、徳島北に進学したんです。
――Q.そこで出会ったのが前田 大成投手(山梨学院大進学)。ライバル関係のはじまりです。
新田 前田は常に意識している存在でした。僕は「練習試合ではいつもいいけど、公式戦では……」と評価を受ける中「こじんまりしたくない」ということでストレートにこだわっていたんです。真上から投げ下ろすストレートで3年の6月には143キロを出しました。
でも、前田は練習でも試合でも一定以上の力を出していました。監督さんにとっては、「ここ一番で力が出せない」自分は公式戦で起用しづらかったと今になって思います。
――Q.結果、背番号「1」は前田投手。新田投手は2番手の構図が続きます。
新田 高校2年の途中から「やりきれない。うまくいっていない」想いは常に持っていました。だからこそ、次の世界ではがんばりたい想いが強くなってきました。
――Q.最後の夏は初戦で川島と対戦。3対5で敗れ新田投手の登板はありませんでした。
新田 途中で投入してもらえるような絶大な力になりきれませんでした。試合が終わった時も「悔しい」というよりも「もどかしい」気持ちでした。

- 新田 大輔 (にった・だいすけ)
- ポジション:投手
- 身長:184センチ90キロ
- タイプ:右投右打
- 北島町立北島小(野球経験ほぼなし)~生光学園中<ヤングリーグ>→北島町立北島中~徳島北高