メジャー挑戦物語 ~西嶋 一記~
2010年12月21日
「いつか、ここでやりたい」
青く澄んだ空と、緑の天然芝が眩しい。ドジャー・スタジアムの広さに圧倒されながらも、西嶋一記の胸には熱い思いが込み上げてきた。
今年2月、明大野球部が創部100周年記念でアメリカへトレーニングキャンプに行った際、1日だけ本場のドジャー・スタジアムで練習をする機会があり、そこで西嶋はバッティングピッチャーとしてマウンドに上がった。
「ここで、お客さんがいっぱい入っている中で投げることができたらすごいなーって感激していました。実は、アメリカでマウンドに立つのはこれが初めてではなかったんです。中学の時にシニアの全日本選抜でアメリカ遠征に行って、その時は中学生の試合なのに観客の盛り上がり方がすごくて、そういう雰囲気が当時から好きだったんですよね。『あ~、やっぱりこっちで野球をやりたいな』って中学生のときに思った感情と、この時の感情が全く同じだったことに気付いて自分でも驚きました」。
13日間のトレーニングキャンプを経て日本に帰国した時には、西嶋はアメリカで野球が出来なくなる寂しさまで感じていたという。それでも、「まずは日本のプロで活躍してから、いつか向こうにいけるチャンスがあればいいなと思っていました」と、10月11日、プロ志望届を提出。しかし、ドラフト会議で西嶋への指名はなく、社会人の企業チームでプレーする準備を始めていた。
その矢先だった。ドジャースのスカウトから西嶋に声が掛かったのだ。
「善波監督からその話しを聞いた瞬間に『あっ、向こうで野球ができるんだ!』って嬉しくて、不安も迷いも全くありませんでした。もともとアメリカで野球がやりたいって思っていたから、今は本当に楽しみな気持ちでいっぱいです」。
晴れ晴れとした表情でそう語る西嶋だが、15ヶ月前には野球人生において初めての“どん底”を経験していた。
「大学2年春から3年夏まで肩と肘を痛めて、ボールが投げられない状態が続いていました。去年の春なんてスピードも10キロ落ちて、痛くて腕も振れなくて、もうダメかなって思ってましたから。今だから言えるけど、あのまま野球を終えていてもおかしくないほどの状態だったんです」。
だが、西嶋は諦めなかった。善波監督やトレーナーの言葉を信じて、体全体の使い方を改善していくことでバランスも良くなり、本来のピッチングを取り戻していった。
また、後輩投手陣の活躍も西嶋の心に火をつけた。「いつまでも負けていられない」と3年秋、完全復帰を遂げ10試合32イニングを投げ、自責点4。防御率は、リーグ1位の1.13をマークして、チームの優勝にも貢献した。
今年に入ると、キャッチャーから「あれ?お前の球、こんなにきてたっけ?球が重くなったな」と言われるまでになった。今シーズンは、これまでにないほどの成長ぶりを、チームの成績につなげることができなかったことが唯一の心残りだが、次はアメリカの地での活躍を誓っている。
「アメリカで野球は出来るけど、僕の夢はまだ叶っていないんです。メジャーで投げられる可能性があるという権利をいただいただけ。あのマウンドに立てるかどうか。ここからは僕の力次第ですから。何年かかってでも、メジャーのマウンドに立ちたいです」。
最後に、西嶋はもう1つの夢を教えてくれた。
「野茂さんがドジャースに行かれて活躍されたことで、日本のプロ野球界からメジャーに行く流れが生まれました。今度は、僕や高野(文徳)など学生からアメリカに行って結果を残すことで、これからの学生選手たちに『僕らもアメリカでプレー出来るんだ』と思ってもらえると思うんです。それが僕らの使命だとも考えています。しっかりと結果を出して、何年か経った時、学生野球界に新しい道が出来ればいいなと思っています」。
メジャーに挑む西嶋一記の物語は、これからが面白い。
文・インタビュー:安田未由(高校野球情報.com)