「最後の最後まで、熱い人です!」

 優勝インタビュー。仙台育英(宮城)・須江航監督が見せた涙について問われると、佐藤 悠斗主将(3年)は笑顔でそう答えた。

 須江監督、涙の理由はこうだ。
 「100年間、開かなかった扉が開いたので、多くの人の顔が浮かびました。(今の高校3年生は)入学どころか、中学の卒業式もちゃんとできていなくて。青春ってすごく密なのに、そういうことをダメだといわれてきた。活動しても、どこかでストップがかかってしまうような苦しいなかで、あきらめないでやってくれました。本当に、全国すべての高校生の努力の賜物で、最後に僕たちがここに立っただけなんです」

 重い重い扉だった。

 青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島の東北6県のチームが、初めて決勝に進んだのは1915年、第1回全国中等学校優勝野球大会の秋田中(現・秋田)だ。だがそこで京都二中(現鳥羽)に延長で敗れて以来、夏の甲子園では過去9回、春も3回、決勝で敗れてきた。

 高校球界ではこれを「優勝旗は、白河の関を越えていない」と表現する。かつて、みちのくの入口だった関所を、越えなければいけないハードルと見なしているわけだ。仙台育英は、チーム3回目(春を含めれば4回目)の決勝進出で、下関国際(山口)に8対1。ついに重い扉をこじ開けた。

 特徴的なのは、豊富な投手陣を擁した継投だ。これは2018年に就任した須江監督が、ずっと貫いている方針だ。

 初采配だったその夏の甲子園は初戦敗退だったが、19年夏は4投手を起用してベスト8まで進んだ。このときは星稜(石川)との準々決勝で大量17失点しているものの、21年のセンバツでも、5投手を擁しベスト8入りを果たした。まるで、20年から導入された1週間500球の投球数制限を見越していたような戦略。須江監督は、こう説明する。

 「相手打者の目が慣れる前に、球速や球種の違うピッチャーを起用することができる。もちろん、投手の健康管理を徹底しながら育てることにもこだわってきました」

 現チームには、最速が140キロを超える投手が10人以上いるという。その投手陣を、医師や理学療法士、トレーナーなどのメディカルチームが情報を共有し、計画的に起用して育成する。練習試合なら1カ月先までのローテーションが決まっているのも珍しくなく、むろん連投はさせない。公式戦になると、事前に起用法を伝えるため、選手は本番から逆算した準備ができる。

 決勝で先発したのは、ヒジのけがなどで宮城大会では登板がなかった斎藤 蓉投手(3年)。7回を3安打1失点に抑え、
「自分以外の4人が、ここまで連れてきてくれた。だから甲子園では自分が、と心に決めていました。ベンチ外のメンバーも含めて変わらない能力を持っていて、ほかのピッチャーには自分にない良さがあり、刺激になります」

 この斎藤 蓉は、愛工大名電(愛知)との準々決勝でも先発し、決勝と合わせて2勝。鳥取商との初戦は、先発した高橋 煌稀投手(2年)が5回を1安打無失点でまとめ、勝ち投手は2番手の古川 翼投手(3年)。明秀日立(茨城)との3回戦、勝ち投手は、7〜9回をピシャリと締めて逆転を呼んだ高橋で、準決勝の聖光学院(福島)戦は2番手の湯田 統真投手(2年)が勝ち投手…。

 全試合を継投で優勝したのは6チーム目で、今回の仙台育英は5試合でのべ16人が登板した。これまでの最多は07年、佐賀北の14人だが、これは引き分け再試合を含む7試合でのものだから、16という数字の突出ぶりがわかる。しかも仙台育英は、古川、高橋、斎藤蓉、湯田と異なる4人が勝ち投手で、これもきわめて異例ではないか。チーム防御率は2.00。継投は、タイミングを誤るとリスクもともなうが、この数字なら思惑通りだ。しかも、登板した5投手はすべて145キロ以上をマークする力を持つから、これはもう投手王国といっていい。

 5試合で47得点した打線は、チーム打率にして.397。上位から下位までよくつながった。決勝でとどめのグランドスラムを放った岩崎 生弥内野手(3年)は、宮城大会ではベンチ外だった選手だから、こちらも層が厚い。

 陸上競技の100メートルで、日本選手はかつてなかなか10秒を突破することができずにいた。だが17年、桐生祥秀(洛南高出身)が初めて9秒台を記録すると、すぐれたアスリートたちが次々とこれに続いた。9秒台は不可能なのでは、という心理的な壁がなくなったことも大きな要因だという。

 そして、甲子園。白河の関という壁は、ついに崩れた。ほかの東北勢も、続くはずだ。仙台育英にしても、決勝のスタメンでいうなら4番までのうち3人、5人の投手陣のうち、やはり3人が2年生である。そういえば、初めて北海道に大旗をもたらした駒大苫小牧(南北海道)は、04〜05年と夏を連覇したっけ…。

(記事=楊 順行)