智弁和歌山高等学校【前編】(和歌山)
第9回 智辯和歌山高等学校
2010年07月29日
これは智辯学園高コーチ就任時からこれまで40年間、数多くの練習試合を四国内で開催するなど「四国で育ててもらっている」高嶋監督が成し遂げた偉業に、高橋監督、上甲正典・済美高監督、馬淵史郎・明徳義塾高監督を始めとする四国内の高校野球関係者が応える形で実現したものである。
まず講演会では徳島県高校野球連盟加入全32校の監督・部長を前に熱弁を振るった高嶋監督。続く祝賀会では「四国88箇所巡礼を果たしたのだから、甲子園でも88勝してほしい」(馬淵監督)といった出席者の祝辞に対し、「この場に来ていただいて感謝している。今後も智弁和歌山をコテンパンにやっつけてほしい」と感謝の意を述べていた。
そして今回、「高校野球情報.com」ではそのうち「私と高校野球」という題名で行われた智弁和歌山・高嶋監督による講演会の模様を抜粋してお伝えする。これまでほとんど明かされなかった高嶋流トレーニングの一端、甲子園での必勝法など、興味深い話の数々をどうぞネット上でも感じてもらいたい。
夏の「12試合」を頭に入れ6月に鍛える
【講演をする高嶋監督】
今回、徳島県高校野球連盟監督会から講演の依頼を頂いた際、長らく四国で育てていただいているので、その恩返しという気持ちでお受けしました。大学を卒業して昭和45年から四国で試合をさせて頂いておりますので、私の野球も四国の野球じゃないのかな、と思っています。その当時から高知、徳島、香川、愛媛、全部回ってやってまいりました。
実は昨日(鳴門工高の)高橋監督に電話して「何を話したらええんや」と聞いたのですが、「任す」と言われまして。そこで余計何を話していいのか分からなくなりました。ということで頭の中は真っ白です。何をしゃべるか分かりませんが、思いつくままにしゃべっていきますので、1つでも参考にして頂ければいいと思います。
さて、皆さんも6月に入ってから夏への追い込みで大変な時期かと思います。ウチの学校も6月に入って極端に練習量が増えまして、6月の練習試合ではまだ1勝もしていません。ゲームをやると全部負けています。昨日(6月20日)も中京大中京まで遠征に行きまして、1回に3点、2回に2点、「これはコールドゲームやな」と思うくらいにやられました。その後追い上げて試合にはなったのですが、やられました。
ただ、確かにこの時期は皆さんにとって大事な時期であると思いますが、僕は夏の和歌山県大会1回戦からの6試合、夏の甲子園での6試合、計12試合を頭の中に入れて6月の練習をやっています。あの炎天下の50℃近い中で1ヶ月のうちに12試合をやる中でバテない体力を付けるようにしています。「甲子園の決勝でバテてバットが振れずに負けた」これだけはやりたくない一心で6月に鍛えています。
みなさんの学校よりは少ないとは思いますが、例えばアップではポール間走100本、練習の間には100m走100本という鍛え方です。だから選手はフラフラになります。でも、毎日は走らせません。週に2回、多いときで3回このメニューを組んで、長い距離を走らせた翌日は短い距離といった感じでやっています。
その中でも一番しんどいのは600m走と300m走。
これが選手たちにとって一番厳しいようです。ウチであれば300mは45〜50秒(注:サッカーJリーグ選手と同タイムに相当)1本を走って休憩が1分半。やはりスタミナを付けようと思ったら、休憩を長くとってはいけない。ハアハアしている状態でまたスタートさせていますので、選手たちにはかなり堪えているはずです。だから「タイムレースやるぞ!」と僕が言うと選手たちはガックリ来ていますね。でも、それを乗り切るだけの体力、それを乗り切ったときの「よっしゃ、やった」という精神力は、野球のいざというときに活きてくると思っているんですが。
あと、最近はやっていないんですが「ハンディレース」というのもやっています。ハンディというのは、練習試合で相手投手が弱い場合には20点付けます。この場合20-0で勝てばチャラになりますが、20-1になった場合は21点取らないとチャラになりません。ただ、普通は20点取ることは難しいんですよ。相手がエラーでもしない限り20点はなかなか取れません。で、20点差を付けられないときは1点につき全員が100m走100本です。となると彼らは相手というより僕と試合するようなところがあります。
つまり、そうやってプレッシャーをかけることによって、彼らはプレッシャーに負けない精神力を付けることになる。例えば夏の大会、5回を終わって0対4で負けていたとします。そのとき「お前ら、あの苦しさを忘れたんか!」という一言でナインは発奮します。そして試合を引っくり返す。だからこれは大事な要素だと僕は思っているんです。
あと、強いチームと試合をするときには「負けたらポールからポールまで100本」とハンディを付けます。そしてもし第1試合で負けたらすぐに外野で走らせます。そして1時間ほど、2試合目が始まるまでやっているわけです。ただ、メシを食わせないわけにはいきませんから、試合開始5分前に集合をかけて「あと5分で試合が始まるから、メシを食って着替えろ」と言います。そうなると普通メシは食えません。着替えるのが精一杯です。でも僕は「メシを食うな」とは言っていません。彼らが勝手に食わなかっただけですから。
と、このようなことをやっていくと2試合目はほとんど試合にならないんです。腹が減りますから頭も動かないので。そうすると選手たちの中には「クソッ」という反骨心が生まれてくる。こういった悔しさを経験すると試合では負けなくなります。それが僕はラッキーもあると思いますが、智弁和歌山で夏の和歌山県大会決勝に17回進出して1つも負けていない。決勝での不敗神話が続いていることにも…それはたまたまですけどね。
でも、そうするにはそれなりの戦い方があります。これは企業秘密ですけから、あとでチラッとお話しますね。
甲子園での感動で指導者の道へ
【感動によって人は変わる】
さて皆さん、「人間は感動によって変わる」とよくいいますが、僕もそのうちの1人です。僕の中学時代、福江中野球部の先生は体育の先生でしたが、専門は野球でなく空手でした。でも、その先生が道着を着て空手の型をやってくれたとき、僕はむちゃくちゃ感動しまして
「すごいや、俺はこの先生に付いていこう」
と思ったんです。そうしたら、中学3年では地区大会で優勝、長崎県大会でも優勝。僕らのころは全国中学校体育大会がなかったので県大会で終わりでしたが。
そして高校では
に行って2年生、3年生と夏の甲子園に行けたわけですが、2年生のときに初めての甲子園で入場行進をしたときには足がガクガクして、ものすごい感動を覚えたんです。そこで僕は「よし、もう1度甲子園に帰ってくるときには指導者になって帰ってくるんだ」と決めました。指導者になれるかどうかもわからないのに、そこで決めたんです。ということで今があるわけです。
こういった感動は人生を変えてしまうわけですよね。だからこそ「この感動を野球の後輩に味あわせてあげたい」、その一念で僕はまだ野球を続けているんです。
ということで日本体育大学に行きました。大学を卒業して
智辯学園に務めたんですけれども、実は
智辯学園には試験を受けて入ったわけではありません。当時の(藤田照清)理事長が大学に来て、面接で試験を受けただけなんです。「来てくれるか」と。それに対して僕は大学野球部の監督が「お願いしますと言うたらええんや」というので、「お願いします」と言っただけ。それで採用が決まりました。
(昭和45年)当時、日本体育大学の卒業式は3月3日だったと思います。だから4月1日に学校に集合かと思っていたら、学校からは「3月3日の夕方に来てくれ」と言われました。「え、そんなんありか?」と思いながら、3月3日の夕方に
智辯学園に行ったら、そこから即練習です。まあ、野球部の手伝いをすることを条件に僕を採用したようなところもありましたからねえ。
(文=寺下 友徳)
- 高嶋 仁
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- 生年月日:1946年5月17日
- 出身地:長崎県五島列島生まれ
- ■ 経歴
長崎海星高 -日本体育大
長崎海星高時代は投手兼外野手として昭和38・39年の第45・46回全国高等学校野球選手権大会に出場。昭和45年4月、日本体育大学卒業直後から智辯学園高でコーチを務め、昭和47年には同校監督に就任し、昭和51年の第48回選抜高等学校野球大会での自身甲子園監初采配を皮切りに春2回、夏1回の甲子園で通算7勝3敗の好成績を残す。
その後、昭和55年には智辯和歌山高の監督に就任。春7回、夏16回の甲子園出場のうち、平成6年・第66回選抜高等学校野球大会、平成9年の第79回、平成12年の第82回全国高等学校野球選手権大会における3度の全国制覇をはじめ、現在までに春47勝21敗、夏31勝14敗をマーク。
先に行われた第82回選抜高等学校野球大会では1回戦で高岡商高に6対1で勝利したことにより、中村順司氏(元PL学園高・現名古屋商大監督)を超える甲子園通算勝利59勝の金字塔を打ち立てた。現在、智辯和歌山高校野球部監督と学校法人智辯学園理事職を兼任。