「野球部訪問」

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第10回 智弁和歌山高等学校【後編】 (和歌山)2010年07月29日

高校生はすごい力を発揮する

【マウンドに集まる智弁和歌山ナイン】

さあ、智辯学園での務めが始まりました。智辯学園は過去、甲子園に1回(昭和38年・第50回全国高等学校野球選手権大会)出たことはあったものの、奈良県では2回戦や3回戦で勝ったり負けたりの学校です。そこでチームを見たとき、最初に気付いたのはホームランを打つ選手がいなかった。「これでは甲子園に行くにはしんどい」ということで、選手たちを鍛えることにしました。

僕は体育教師と野球部コーチという肩書きで採用されていますので、鍛えるのは専門分野です。徹底的に鍛えました。あまりに指導に熱中しすぎて「おい、今何時や?」と選手に尋ねたら「午前2時です」ということが結構ありました。30回とは言いませんが、十何回はあったと思います。

そこで「おい、メシは?」ともう1回選手に聞いたら「親が弁当を持ってみんな待っています」。そこでメシを食って2時半。その後、僕は寮監もしていましたので、僕の部屋でバットスイング。廊下には選手たちがバット持って寝ながら順番待ちです。そんな感じで鍛えました。

そうすると最初はホームランが打てなかったのが、1ヶ月、2ヶ月すると練習試合でホームランが出るんですよ。「これは凄い」と僕は感動しました。僕はよく人に話すのですが「教えつつ、教えられ」というか「育てつつ、育てられ」といいますか、その力をじかに経験したわけです。「こいつがホームラン打てるのか?」という選手が実際にホームランを打つんですよ。鍛え方さえ間違わなければ高校生はすごい力を発揮する。そのことを僕は勉強させてもらいました。こうして一年が経つと2回戦、3回戦止まりだったチームが夏の奈良県大会決勝戦に行くようになりました。決勝では(郡山高に)2対3で負けて甲子園には行けませんでしたし、悔しい思いはありましたが、鍛えればそれなりの答えを出してくれたんです。

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プレッシャーに「慣れる」ことが大事

【高嶋監督】

当時の智辯学園における練習量は日本一という自負はありました。当時の奈良県では天理高、郡山高、御所工高という名門があったし、すごい選手もいました。

だから「天理が4時間練習している」と聞けば、「よし、じゃあウチは6時間練習やろう」ということで、倍々で練習していかなければ勝てません。また、「天理はどんな練習やっている?」と聞いたら「レコードをかけてバッティングしている」と。

強いところはそれでいいかも知れませんが、強いチームを倒すチームはそれでは勝てないし、それなりに考えて練習をやらないといけません。

例えばウチは今でも智辯和歌山ではやっていますが、練習の合間に腹筋、背筋を2000回ずつやります。みなさんは「2000回!そんなんやるの?」と思われるかも知れませんが、これは「慣れ」です。ポール間100本走るのも「慣れ」です。慣れたらなんてことありません。嫌というほど走るのもみんな「慣れ」です。

それで100本走っている中で1週間のうち1回だけ「今日は50本でええ」と言うと選手たちは「ヨッシャ!」となるんです。それは100本走ってきたからなるのであって、いつも30本しか走っていないのに50本と言ったらブーイングですよ。だから、時間の許す限り彼らの体力の限界に挑戦させてやることが必要だと思うんですよね。

それとみなさんはこの時期はどこも追い込んで100本ノック、200本やっておられるとは思いますが、智辯和歌山ではそんなノックはやりません。多いときで右側15本、左側15本、計30本のノックだけです。15本、15本のノックは楽ですよね。でも彼らは必死になってやります。さあ、やっと30本捕りました。時間を見たら2時間経っています。なぜでしょう?

捕れるところなんて打ちませんよ。一生懸命行ってやっと捕れるところに打つんです。だから結果的には100本ノック以上の本数を打っています。たぶん500本くらいですね。たった30本捕るのに、それくらいの時間はかかるんですよ。100本打っても捕れるところでの100本じゃ意味がないんです。やはり捕れるか捕れないかのところに打つことが大切です。

それと僕は「足を使って捕れ」と選手によく言います。それから先、足を使って捕れないときは飛び込むことになりますが、この『飛び込む』ということも大事な要素です。ほとんどの選手は倒れるだけなんですが、これではいけない。『飛び込む』ということは身長の2倍から3倍のボールを捕ることです。僕はこれも大事なことだと思いますし、それを体験するとそれなりの精神力も出てきます。

あと、ボール回しでは「ノーエラー」というメニューをやります。サードから始めてサードからファースト、ファーストからキャッチャー、キャッチャーからサード、サードからキャッチャーで1本。これを10本連続で終了です。はじめのうちは2時間かかりますが、慣れてくると20分くらいで終わります。これも『慣れ』ですよね。

何でも慣れだと思います。甲子園に行くためにはプレッシャーもかかります。特に地方大会の決勝戦。僕も経験がありますが、和歌山県17回決勝に行ったうち、相手がプレッシャーに負けて敗れてくれた場面が5回くらいありました。ある公立高校との決勝戦では、ウチが5回まで4対0で勝っていたのが、5回に4対4に追い付かれた途端に、相手は「ひょっとしたら甲子園に行ける」となったのか、ショートがエラーしてファーストへ暴投、次のセカンドゴロでもまたファーストへ暴投。信じられないことが起こりました。

そこで僕は言ったんです。「点をくれるから普段とおりやれ」と。結果的に10対4で勝ちました。相手はプレッシャーに負けたんです。智辯和歌山は普段とおりやっただけ。こういったプレッシャーをはねのけるのは普段の練習しかないんです。普段の練習の中でプレッシャーを与え続ける。つまりプレッシャーに「慣れる」ことが大事なんですね。

この中にはメンタルトレーニングとかをやられている先生もおるでしょう。僕も以前、日本体育大の後輩でメンタルトレーニングの本を出している先生がいたので、来てもらって練習を見てもらいました。そこでも僕があまりにもプレッシャーをかけるものですから、その先生いわく「智辯和歌山ではメンタルトレーニングは要らない」と。ということでウチではメンタルトレーニングはしていません。あれは時間がかかりますので、常にプレッシャーを与えることだけをしています。それがいいのか、悪いのかは分かりませんが、結果的にはいい方向につながっているようには思うんですが。

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甲子園での感動は言葉に言い表せない

【球児たちを待つ甲子園球場】

話を戻しましょう。智辯学園では3年契約、実は3年終わったら九州に帰ろうと思っていたのですが、その3年目に入ったとき監督を引き受けることになりました。練習量は豊富だったので嫌というほど練習をしたのですが、監督になってから4年間、県大会の決勝まで進んでも勝てない。僕はその間に3回辞表を出しました。でも、当時の校長や理事長が辞表を出すたびに言うんです。「こんなん持ってくるくらいなら勝てばいいじゃないか!」と。それと理事長は「どうせ責任を取るのは監督。選手のことを知っているのも監督や。人の言うことを聞くとかそういうのではなしに、お前の好きなようにやれ」と言ってくれたんです。それが頭の中に残っていますので、今でもそのようにやっているわけです。でも、選手たちは僕の指導に耐えてしつこく甲子園に行ってくれました。

ということで辞表も受け取ってくれないので、練習は厳しくなっていく。そうするとこういう事件が起こったわけです。「練習ボイコット」です。キャプテンを中心にして「監督にはついていけない」となりました。そこで僕は「ああ、これでちょうどええわ。これが潮時や」と思って退職を心の中で決めたときに、部長が「監督の思いを選手に伝えたらどうや」と選手との話し合いの場を設けてくれたんです。

そこで僕は選手に自分が葛藤したことと、どうしても甲子園に連れて行きたいという思いを伝えました。これを聞いたキャプテンはこう言ってくれました。「監督、付いていきます」。確かにこう言ってくれたことは嬉しかったんですが、その一方で僕は自分の想いを伝えても選手の想いを汲み取ってやれなかったことをその中で気付いたんですね。つまり、気持ちが通じていなかったんです。キャプテンが練習ボイコットという行動を起こしてくれたことで、監督と選手たちの気持ちがお互いに分かったんですね。

そんなことがあった4年目の秋、奈良県大会では準優勝でしたが、近畿大会で1つ勝ったことで昭和51年の第48回全国選抜高等学校野球大会で、監督としてはじめて甲子園に連れていってもらいました。入場行進で選手たちが歩いてくるとボロボロ涙が出ます。自分が選手として歩いたときよりももっと泣きました。すごい感動でしたね。「ああ、監督辞めないでよかった」という想いです。

実は今でも入場行進をバックネット裏で見ていると涙が出てくるので、バックネット裏では見ていません。甲子園に行くとカメラが来るので秘密の場所で見ています。お互いに苦労してやっと甲子園に出たあの感動というのは、言葉では言い表すことができないですね。

みなさん、監督として一度でいいから甲子園に行ってください。1回行ったら2回行きたくなる。2回行ったら3回行きたくなります。辞められへんです。僕も甲子園から帰ってきて1週間経つと思うんです。「ああ、甲子園に行きたい」と。だからまた張り切ってやれるんです。

僕はそれを毎年繰り返していくうちに29回になりました。こんなに行けるとはもちろん思っていませんでしたし、59勝するなんて思っていませんでした。でも、選手たちを何とか甲子園に連れて行ってやりたい。甲子園で1つでも勝たせてやりたい。その想いが今も続いているだけです。だから僕は甲子園で59勝しても実感なんかありません。選手があの苦しい練習に耐えて、甲子園で勝ってくれたお蔭だと思っています。だから選手には感謝しています。負けたら監督の責任、勝ったら選手のお蔭ということで「高校野球の監督は割に合わない」とは言いますけど、僕は甲子園での入場行進を見ただけで十分選手から報酬を貰っている気持ちでいますね。

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智辯和歌山でひらめいた2つのこと

【高嶋監督と四国の名将の方々】

こうして選手たちに連れて行ってもらった甲子園。そして「よかった、辞めんでよかった」と思ったはじめての甲子園では2回も勝つことができました。そして次の年、選抜に出て今度はベスト4。こんなすごいことないですよ。その年には夏の大会に出て2勝してくれたので計7勝です。

チームとしてはたいしたことはなかったです。が、練習量が日本一ということでやってきたことが成果になるには、何かのきっかけが必要だったんですね。選手たちが練習をボイコットしてくれたことで指導者として「こうでないとアカンよ」ということを教えてもらったと気がします。

そして昭和55年、僕は智辯和歌山に転勤になります。学校自体は昭和53年にできていましたが、僕は昭和54年に智辯学園の監督を退いて一年間副部長で残った後、昭和55年に転勤になったわけです。実は、昭和54年に智辯和歌山は和歌山県高校野球連盟に加入したので1回練習を見に行ったこともあったのですが、そのときは部員も50人くらいいましたし、同好会的なチームでしたが楽しくワイワイやっていましたね。

ところが、昭和55年に和歌山に転勤になってグラウンドに行くと3人しかいない。みんな辞めてしまったんです。「奈良から監督が来るらしい。あの監督が来たらみんな殺されるぞ」という噂が流れたようです。そこで僕は3人いた選手に聞きました。「君の中学時代の競技は?」。返ってきた答えは「バスケットです」、「陸上競技です」。つまりもともと野球をやっていない子供たちなんです。そこで「野球好きな奴がいたら呼んで来い」と声をかけたら、15人ほどは集まりました。そこが智辯和歌山でのスタートです。

当時の和歌山県といえば、昭和54年には箕島高が春夏全国連覇を成し遂げている状況。もちろん智辯和歌山にとって箕島高は雲の上、遥か彼方にある状態です。対して自分のチームは10分間のトレーニングに選手たちがついてこれない。キャッチボールもまともにできない。もちろんバットスイングもまともにできない。ある程度自信を持って和歌山には移りましたが、「これは大変なところに来たなあ」と思いました。

「これはアカン。20年甲子園に出るまでかかるな」と思いましたが、そんなことを言っても先に進みませんから、そこでひらめいたことが2つありました。1つは「初心者に技術的なことだけを教えても難しい。それならばまず技術よりも肌で感じてもらった方がいい」ということ。それはすなわち「試合をすることによって自分で感じてもらった方がいい」ということです。

ということでゲームをすることにしたのですが、和歌山県内では練習試合を組もうとしても「智辯」と言うと奈良県と思われて試合を組んでもらえない。そこで「くそったれ、今に覚えとけよ」という気持ちになりました。僕の闘争心に火がついたわけです。「20年かかるところを絶対に10年で甲子園に行ったる」と思いましたね。

そこで四国の高校に練習試合を申し込んだら、みんな快く引き受けてくれました。特に蔦先生(蔦文也・元池田高監督)に電話したら「おう、和歌山に転勤したのか。すぐこい!」と言われました。チームが弱いのをわかっていたのに、練習試合を組んでくれたんです。そこで練習試合をしたら、30何点取られました。ゲームが終わらないんです。そこで試合途中で選手たちが泣いているんですね。やっぱり悔しいんです。同じ年齢でそんなに差がつくんですから。

でも僕はその姿を見て「よし、これで何とか甲子園が近づいた」と思いました。彼らは肌で感じてくれたんです。池田はバカバカホームランを打つ、ピッチャーも140キロを投げる。やっぱり悔しいですよ。下手ですけど。「何でこんな差があるんや」となる。帰ってミーティングをすると僕の言ったことは100%通るんです。「こういうボールを投げるにはこういうトレーニングがある。そのためにはこのようなことをせなアカン」と話せば選手たちの中にスーッと入っていくんです。その日から選手たちは黙々と練習してくれました。

そうなるとチームは強くなりますよね。選手たちは下手なのが分かっていますから、練習をどんどんやる。そうするとチーム力も上がる。そこでまた練習試合を申し込むと、今度は30何失点が10何失点に減ってくるんです。さらに得点も1点か2点取れる。試合になるんですよ。

もう1つは「まずなんとかしてベスト4に入ること」です。和歌山大会は参加高校が少ないので、使用球場は1箇所しかないんです。だからTV放送も1回戦からあります。ということはベスト4に入るとTVに最低4回映るということです。4回もTVに映ったら中学生の中で「智辯和歌山、結構やるやないか。だったら俺は智辯和歌山にいったろ」という奴が必ず出てきます。それで必死になって練習して3年目の夏、ベスト4に入ったらアンダーシャツが紫だったので「ワインレッド旋風」という風に新聞にも書いて頂きました。それを見て翌年の春に入学してきた中学生が上級生になったとき、昭和60年の第57回選抜高等学校野球大会で僕は智辯和歌山の監督としてはじめて甲子園に連れて行ってもらったんです。つまり、自分が頭の中で描いていたことが現実として出てきたわけです。

これは凄いことだと思います。もちろん僕も選手たちを鍛えましたが、高校生は鍛え方によってすごくなるんですよ。自分たちが下手だと思ってあきらめたら終わりです。僕は彼らを甲子園に連れて行くことしか頭になかったんです。どんなことをしても連れて行きたいと思って丸6年で甲子園に行くことができました。選手のおかげです。

それからはだいたい2年に1回のペースで甲子園に行けるようになりました。これは出来すぎですね。3年に1回甲子園に行けるだけでも「名門」と言われるのに、2年に1回は出来すぎですよ。でも、2年に1回甲子園に行っていると、たまにその間が詰まって甲子園に行く場合があります。そうすると3年連続になるんですね。5年連続もあります。去年の夏に和歌山県優勝で夏は2回目の5年連続になりました。今年行けばはじめての6年連続になります。

みなさん、高校生はすごいんです。あきらめずに鍛えてほしいと思います。僕もそうやってチームを作ってきました。若い先生たちには智辯和歌山に苦難の時代があったことは分からないかも知れませんが、やはり最初から強かったわけではないんですね。1つ1つクリアして上がっていったんです。

最初に智辯和歌山は6月に入ってから練習試合で1勝もしていないと言いました。みなさん、勝ち方を教えてください。バットも振れません。ヘッドが下がってどうしようもないんです。でも、ここは監督も我慢です。ここを乗り切れば栄光が待っていると思います。

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高嶋流「甲子園への進み方」

【意識が変わり実力も向上した09年エース・岡田】

では、先ほど「企業秘密」を教えると言いましたので、ちょっとだけ。

ウチも今度の日曜日(6月27日)夏の和歌山県大会の抽選会がありますが、僕は抽選会が終わるとまず決勝戦の先発ピッチャーを決めます。今年はシードなので5試合ありますが、そのうち決勝戦のピッチャーを決めて、例えばここにエースを持ってくるとすると、決勝戦はエースに任せます。で、残りの4試合をどうやって戦うかを考えます。そのうち2回戦に強い学校と当たる可能性がある場合にはエースをちょっと使います。エースを使うのは3試合くらい。あとは他のピッチャーでやり繰りします。

だから智辯和歌山に勝とうと思ったらエースが投げない早い段階の方がいいです。エースは投げませんから。2001年夏に開会式直後の1回戦で負けたことが(和歌山工高に1対5)ありますが、そのときもエースは投げていません。その次の2人が投げました。みんなに言われました。「なんでエースを投げささん。エースが投げたら勝てるやろ」と。その批判は僕が甘んじて受けます。でも僕は甲子園に行きたい。甲子園に行けないのなら決勝で負けても1回戦で負けても一緒です。公立の先生にこんな話をすると「違う!」と言われますが、僕は甲子園に出られないことは一緒だと思っています。それが僕のやり方なんです。学校の理事長にも「その考え方が嫌だったら監督を辞めます」と話をしています。

僕は甲子園に行きたい。選手たちを連れて行きたい。そのために元気なピッチャーを決勝戦においておきたいんです。例えば相手がエースを5連投させて決勝戦まで勝ち上がってきたとしても、やる前に勝っているんですよ。智辯和歌山のピッチャーが元気なのに対して、相手高のピッチャーはへばっているわけです。なんぼスーパースターでも5試合戦ってきて、6試合目にいいピッチングはなかなかできないですよ。僕は常に決勝戦の試合前に言うんです。「10点取れる。10点を取ったら甲子園に行ける」と。実際10点は取れないですけど、その時点で優位に立っているんですよ。

昨年は岡田俊哉(現:中日ドラゴンズ)という左ピッチャーがいました。僕は一昨年秋の謹慎中に四国88箇所お遍路周りをしていたのですが、謹慎が解けた12月にグラウンドに戻ってみたら、練習が弛んでいたんですよ。「このままでは甲子園には行けない」。そう直感した僕は大学進学予定だった岡田にこんな話をしたんです。「お前は大学に行くのか?」岡田が「はい。いきます」と答えたので「そうか。それなら俺はお前が卒業するまで試合と名の付くところでは1球も投げさせない。でも、プロに行くのなら別やで。親と話をしてこい」。

次の日「プロに行かせてください」岡田が言ってきました。そこで僕は「よし、それなら投げさせたる。でも、練習はキツイよ」と告げたんです。そこから彼は変わりました。走るにしても何をするにも一番になりました。もう、頭の中が切り替わったんです。1ランク2ランク3ランク上のプロに行く気持ちになった途端に変わりました。そうなると上達はしますよね。結果、スピードも140キロを超えるようになった。3年の夏は143〜145キロまで出るようになったんです。身長も高校に入ってから11センチ伸びて182センチになりました。彼がいなかったら昨年は甲子園に行けてなかったと思います。

で、昨夏の和歌山県大会では事前に岡田へ「準々決勝、準決勝、決勝で投げてもらう。あとは投げないでいい」と告げていました。ということで2試合をやり繰りして準々決勝を迎える前には岡田にこう言ったんです。「おい、点を取られたら負けるで」。その結果が3試合3完封です。やはり、どうやったら甲子園に行けるのか、チームを見渡してどれが一番いいのかを考えるのが監督の役目だと思います。

智辯和歌山はこんな感じで夏の県大会を戦っています。だから1回戦や2回戦では12対11とかいうスコアが多いんですよ。エースが投げていないからです。「智辯和歌山はたいしたことないな」とも言われます。たいしたことないんですが、甲子園に行ったらなんか知らんけど勝つんですよ。

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「普段どおり」に近い環境設定を

【甲子園球場】

さあ、和歌山県で勝って甲子園に行きます。でも僕は「謙虚さも自信のうち」という気持ちで指導をしているんです。例えば、優勝するとだいたいのチームが胴上げをしますが、智辯和歌山では胴上げをしません。胴上げをするのは選抜発表の日、相手高のいない自分のグラウンドでだけです。甲子園でも、もちろん(和歌山県大会が開催される)紀三井寺球場でもしたことはありません。やはり相手があってのゲームですから。これは古い考え方かも知れませんが、僕は胴上げをしないんです。

甲子園に行きますと、どの学校も「普段着野球」とか「普段通りの野球をしたい」といいますが、甲子園に出ること自体が普段と違うことをやるわけです。

そうすると選手の行動も変わってきます。そこでウチは甲子園に出ても、自分のグラウンドで練習しているのと同じような場面を作ります。普段は6箇所でバッティングをしているのですが、4箇所はできるように設定する。もちろん、バッティングゲージやマシン、ボールなど用具全部を学校から持っていきます。甲子園用のゲージもちゃんと持っています。これが長年の経験というものです。それは10分から15分で設置ができるようになっています。その時間で設置できる訓練もします。

ボールは1500球持っていきます。雨が降って下がぬかるんでいるときに備えて雨用のボールもちゃんと持っていきます。智辯和歌山では雨が降っても室内と同時に屋外でもバッティング練習をします。バッティングというものは感覚的なものが大きな要素を占めると僕は思っています。特に高校生は。プロ野球選手のようにフォームが出来上がっているのであれば室内でも問題はないと思いますが、僕はボールが飛ぶ感覚を毎日いい感じで終わらせてやりたいという気持ちを持っています。やはり「カーン」といい感じで飛んでいくと、次に残るんですよね。室内で打ってもすぐにネットですから、あまりいい感じがしない。屋外でいい感じで打たせて終わる。それを高校生のときに覚えるのが大事なことだと思います。

そのようにして普段の練習を甲子園に行ってもするようにしています。確かに甲子園に行けばマシンとかは貸してもらえますが、感覚は全然違う。自分のところの道具でやった方が普段通りの野球を心がけられるようになると思います。

ちなみに甲子園は智辯和歌山にとっては「天国」です。なんで天国か?まずビジネスホテルに泊まるので1人1部屋。消灯もありません。練習も割り当て練習しかしていないので1時間半。和歌山では県大会で試合をしても帰ったら練習ですから。ということで県大会ではなかなか疲れが取れないんです。

でも、何で練習するのかというと、例えば1回戦で左ピッチャーに当たって勝った場合、次は右ピッチャーかもしれない。となるともう1回、どのピッチャーが出ても対応できるような状態に戻して自宅や寮に帰らせる必要があるんです。ウチは右、左、変則という3種類のピッチャーを意識して毎日の練習をやっています。部員に左ピッチャーがいない場合にはマシンを左ピッチャー用に設定して、一日の練習で3種類のピッチャー対策を常にやっていれば、実際のゲームでピッチャー交代があっても常に対応できます。それは心がけて常にやっていることですね…あまり参考にしないで下さい(笑い)。

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甲子園を制する3要素

【実力・運・勢い】

甲子園でも県大会同様に抽選会があります。甲子園だからといって特段違う戦い方をするわけではありませんが、1回戦から6試合を勝つためにどうするか考えると、そこには3つの要素があると思います。1つは「実力」。これは絶対必要です。2つ目は「運」。もう1つは「勢い」。この3つがそろった時に甲子園で優勝する気がするんですね。

そのうち「運」というのは最初に出てきます。抽選です。1回戦で優勝候補と当たるとやはり力は出せません。出せずに負けてしまう可能性がある。力を出して負けるのならいいのですが、これはキャプテンの運にかかるわけです。だから僕はいつも抽選会ではキャプテンにこう聞きます。「おい、この参加高中一番強い学校はどこや?」。

例えば「帝京高」と答えたときには「よし!帝京引いてこい!」。つまり「一番強いチームを引いてこい」と言うわけです。つまり「どこでもいい」ということです。でも内心は違いますよ。「ここなら」という学校はあるんですが、そんなことを言ったらプレッシャーになりますから、リラックスさせるんです。僕は過去6回、甲子園で決勝まで行っていますが、そのときは全ていいくじを引いているんですよね。やはり1回戦でしかも甲子園で大量得点を取れるとチームは乗ります。

過去の優勝監督から話を聞いてもみんな同じことを言います。「ここまで来たら選手たちに任す。好きなようにやれ」という心境になるチームは強い。明徳義塾高の馬淵史郎監督も言います。「どうやったら優勝できるか?そんなん分かったら俺は嫌というほど優勝している」。僕も分かりません。でも、チームの勢いというものは肌で感じてわかるんです。

こんな話もあります。平成6年・第66回選抜高等学校野球大会で優勝したときの準々決勝、相手は宇和島東高。上甲正典監督の時代です。8回を終わった時点で0対4と負けていました。ところが9回に引っくり返すんです。信じられないことが起こるんですよ。2点を返して2死満塁。バッターは1番。3ボールになったときに僕はベンチに呼んで「打て」のサインを出しました。そのバッターは160センチくらいしかない。でも、彼が努力をしていたことを僕は知っていました。毎日帰りは最後、コツコツとティーバッティングをして帰るんです。「この子を信じないで誰を信じるねん」と思ったんです。

そこで「分かりました!」と言ったその子は右中間走者一掃の逆転打。これは選手と監督の結び付きがあったからです。その後9回裏に1点を取られて延長戦になりましたが、勝つことができました。今でも上甲さんに会うと言われます。「智辯和歌山はあれを境に変わった」。僕もそうだと思います。やはり「分岐点」というものはあるんですね。やはり甲子園というものはいいものですよ。みなさん。何とかして行ってください。

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甲子園決勝戦での陰と陽

【高嶋監督】

中でも甲子園での優勝は格別です。では決勝戦の様子を話をしましょう。

決勝戦に進むと両校の宿舎で約100名の新聞記者を前に選手、監督1時間ずつのインタビューがあります。盛り上げてくれて本当にいいものですよ。「ああ、やっと明日決勝だ」という感じになりますね。

さあ、決勝戦の日が来ました。この日は甲子園で30分間ずつ練習ができます。お客さんも入っています。相手チームはフリーバッティングで気持ちよく打っています。でも智辯和歌山はフリーバッティングをしません。バントしかやりません。錯覚しますので。

「甲子園には魔物が住んでいる」とよく言うじゃないですか。確かに住んでいます。ホームランを打てない選手がホームランを打つんです。これは魔物以外の何者でもないです。キャッチャーが「肩の調子が悪い」と申告しても「大丈夫、試合になったら投げられる。1球投げてみい」と言って投げたらボールがいくんです。アドレナリンが出るんです。これが魔物の正体ですよ。

さて、試合が始まってまずは優勝したとしましょう。閉会式が終わって場内一周してバスに乗り込んで宿舎まで行きます。宿舎に行ったら出迎えが一杯です。宿舎ではパーティーの用意ができています。これはすごいですよ。もちろん、TVやカメラも全部入って記念撮影をすると「優勝したんや」という実感が出てくるんですよ。100人どころか200人、300人の報道陣の前ですから、そんな気になります。これが優勝チームなんです。

さあ、次は準優勝いきましょか。同じように閉会式を終わってバスに乗り込みます。宿舎に行きます。これを3回経験しましたが、宿舎に着いてもギャル、おりません。新聞記者、おりません。地元の新聞記者1人だけです。前日に100人が来て盛り上げてくれているのに、そんな状態です。

みんな「甲子園で優勝も準優勝も同じやないか」と言われます。そんなことはありません!勝負事は勝たないとダメです。「くそったれ」と思いますよ。負けた途端に勝負の厳しさを味わうんですよ。これが甲子園です。みなさん、甲子園に行ったら負けんといてください。僕はその思いで今までやっているんです。厳しいもんですよ。

だから、僕は平成14年・第84回全国高等学校野球選手権大会での明徳義塾との決勝戦前日に、新聞記者にこう話をしました。「あんたら今日はエエ。でも、明日は勝ったら来るやろうけど、負けても明日来る奴は手をあげてみ」。30人ほど手を上げたのを見て「ホンマに来るんやな。準優勝でも」。実際、馬淵監督に負けまて宿舎に帰ったら30人来ていました。「やっぱり言わなアカンな」と思いました(場内・笑い)。やっぱり嬉しかったですよ。みなさん、言うべきことは言わなアカンです。これが甲子園の決勝戦での様子です。

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「人間の欲には限りがない」

では、最後に「人間の欲には限りがない」という話をして終わろうかと思います。昨年12月亡くなられた理事長の話ですが、理事長には最初、こんなことを言われたんです。「高嶋くん、僕は一度でいいから甲子園で優勝してほしいねえ」。第66回選抜大会で優勝しまして、「優勝しました」と報告にいきました。「おう、よくやってくれた」とは言いません。「高嶋くん、甲子園には旗が2本ある。違うか?」。どう思います?僕はこう思いました。「すごい人やなあ」。さあ、夏の第79回大会で優勝しました。「おかげさまで夏も優勝することができました」と報告に行きました。「おい、ようやった。金一封やろか」とはなりません。「1回じゃなあ」。1回じゃダメらしいんですよ。「これはすごい人じゃなあ」と思いながら82回大会、また夏に優勝して、報告に行ってません。何を言われるかは大体わかっていますから。

普通は甲子園で優勝しますと記念碑が建ちます。他の甲子園優勝校にもだいたいあります。でも智辯和歌山には1個しか記念碑がありません。「セコイなあ」と思いながら裏に回りますと、はめ込み式になっています。優勝した回数だけはめ込むんですが、まだまだスペースが空いている。何を言わんとするか、お分かりですよね。

「くそったれ、今に見とれよ!」。ま、そんな感じでまだ野球を続けております。つたない話になりましたけど、1つでもご参考にして頂けたら幸いです。ご清聴どうもありがとうございました。

(文=寺下 友徳)

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プロフィール

高嶋 仁
高嶋 仁
  • 生年月日:1946年5月17日
  • 出身地:長崎県五島列島生まれ
  • ■ 経歴
    長崎海星高 -日本体育大
    長崎海星高時代は投手兼外野手として昭和38・39年の第45・46回全国高等学校野球選手権大会に出場。昭和45年4月、日本体育大学卒業直後から智辯学園高でコーチを務め、昭和47年には同校監督に就任し、昭和51年の第48回選抜高等学校野球大会での自身甲子園監初采配を皮切りに春2回、夏1回の甲子園で通算7勝3敗の好成績を残す。
    その後、昭和55年には智辯和歌山高の監督に就任。春7回、夏16回の甲子園出場のうち、平成6年・第66回選抜高等学校野球大会、平成9年の第79回、平成12年の第82回全国高等学校野球選手権大会における3度の全国制覇をはじめ、現在までに春47勝21敗、夏31勝14敗をマーク。
    先に行われた第82回選抜高等学校野球大会では1回戦で高岡商高に6対1で勝利したことにより、中村順司氏(元PL学園高・現名古屋商大監督)を超える甲子園通算勝利59勝の金字塔を打ち立てた。現在、智辯和歌山高校野球部監督と学校法人智辯学園理事職を兼任。
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智辯和歌山 【高校別データ】

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プロフィール

寺下友徳
寺下 友徳
  • 生年月日:1971年12月17日
  • 出身地:福井県生まれの東京都東村山市育ち
  • ■ 経歴
    國學院大學久我山高→亜細亜大。
    幼稚園、小学校では身長順で並ぶと常に一番後ろ。ただし、自他共に認める運動音痴から小学校入学時、早々に競技生活を断念。その後は大好きなスポーツに側面から関わることを志し、大学では応援指導部で4年間研鑽を積む。亜細亜大卒業後はファーストフード販売業に始まり、ビルメンテナンス営業からフリーターへと波乱万丈の人生を送っていたが、04年10月にサッカーを通じて知り合った編集者からのアドバイスをきっかけに晴れてフリーライター業に転進。07年2月からは埼玉県所沢市から愛媛県松山市へと居を移し、現在は四国地域を中心としたスポーツを追いかける日々を過ごす。
  • ■ 小学校2年時に福岡からやってきた西武ライオンズが野球と出会うきっかけ。小・中学校時代では暇さえあれば足を運んでいた西武球場で、高校では夏の西東京予選の応援で、そして大学では部活のフィールドだった神宮球場で様々な野球を体感。その経験が取材や原稿作成の際に「原体験」となって活きていることを今になってつくづく感じている。
  • ■ 執筆実績
    web上では『ベースボールドットコム』(高校野球ドットコム、社会人野球ドットコム、独立リーグドットコム)、書籍では『ホームラン』、『野球太郎』(いずれも廣済堂出版)、『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)など。『甲子園だけが高校野球ではない2』(監修・岩崎夏海、廣済堂出版)でも6話分の取材・文を担当した。

    さらに野球以外でもサッカーでは、デイリースポーツ四国3県(香川・高知・愛媛)版・毎週木曜不定期連載中の『スポーツライター寺下友徳・愛媛一丸奮闘記』をはじめ、「週刊サッカーダイジェスト」(日本スポーツ企画社)、『サッカー批評』、web『スポーツナビ』など多数媒体での執筆実績あり。また、愛媛県を熱くするスポーツ雑誌『EPS(ehime photo sports)』でも取材協力を行っている。
  • ■ ブログ:『寺下友徳の「四国の国からこんにちは」』■twitterアカウント@t_terashita
    ■facebook: http://www.facebook.com/tomonori.terashita
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