県立宮崎商業高等学校(宮崎)
愛すべき仲間たちのため、8年ぶり栄光つかむため、掛ける想い。
宮崎県立宮崎商業高等学校野球部~1919年の創部以来、これまでに春2回(1966・1969年)・夏4回(1963・1964・1969・2008年)の甲子園出場。1964年夏の第46回大会では宮崎県勢初の準決勝まで進み、優勝した高知に0対1で惜敗。後に打者転向し広島東洋カープ・阪急ブレーブスで1522安打。広島東洋カープ・中日ドラゴンズ・阪神タイガースで打撃コーチを歴任・教え子は金本 知憲(現:阪神タイガース監督)、前田 智徳(現:解説者)、中日ドラゴンズでは荒木 雅博、福留 孝介(現:阪神タイガース)ら錚々たるメンバーが名を連ねる水谷 実雄氏を2年生エースに押し立てての奮闘は今も宮崎県民の語り草となっている。
では、創部97年を迎えた2016年、彼らは何を考え、どこへ進もうとしているのか?大型左腕・赤川 克紀(元・東京ヤクルトスワローズ)を擁し44年ぶり聖地1勝をあげた2008年夏以来、8年ぶりの甲子園を目指す監督・コーチ・選手たちの「掛ける想い」を追う。
漂う荘厳さ、温かみ、そして緊張感
樋渡 祐志監督(県立宮崎商業高等学校)
「私の叔父は野球部ではなかったですが、宮崎商出身で。その時代の主な野球部OBは小川 亨(外野手。立教大~近鉄バファローズで通算1,634安打)さんや、高橋 博士(捕手・南海ホークス~日本ハムファイターズ~ロッテオリオンズで計18年間プレー)さん。その当時の話を聴いて名門だとは解っていたので、最初に異動することが分ったときは『本当に務まるかな』という感じでした」
宮崎大宮高・宮崎大出身。延岡工・宮崎西・日南で部長・監督を歴任し、野球部のなかった五ヶ瀬中等教育学校では中学の外部指導員を経て、4年ぶりに高校野球の現場へ復帰。2年目を迎える45歳・樋渡 祐志監督は、昨年4月の就任時の本音をこう話す。
確かに正面玄関前に立つフェニックスに迎えられ、足を踏み入れた宮崎商グラウンドには伝統校ならではの荘厳さや温かみが漂っている。一塁側ベンチ裏には棚に選手たちのバッグが丁寧に揃えられている一方で、三塁側ベンチ裏の上では宮崎県民の母なる大河・大淀川のほとりでくつろぐ人々がグラウンドを見つめる。事実、副主将の永野 剛伎(3年・一塁手・167センチ72キロ・右投右打・宮崎市立宮崎西中出身)は「幼い時から土手からずっと練習を見ていて、この雰囲気で練習をしているなら必ず甲子園に行けると思って」宮崎商へ進んだ1人だ。
そして1957年の校舎移転以来変わらぬグラウンドでは、キャッチボールから個々の課題や試合での意図をもった動きがあり、シートバッティングでも「バントしっかり!」の声が飛び交う緊張感あふれる時間が続く。「自分の母も宮商出身だし、赤川(克樹)さんの姿も子どもの時からみていました」(2番左翼手の山﨑 俊太朗<170センチ68キロ・右投左打・宮崎市立本郷中出身>)。「地域が選手を育て、選手が地域に感謝して練習する」好サイクルがすでに完成されている。
ただ、樋渡監督就任当時の宮崎商は「力があるチーム」にもかかわらず新人大会・秋・春とすべて初戦敗退。そこで指揮官は即効性のある戦い方を選択した。「細かいことは言わず思い切り力を出せるように、ノーサインでの野球をするようにしました」。結果、夏の宮崎大会は延岡商・都農を破ってベスト8。準々決勝では聖心ウルスラに2対5で敗れたものの「名門復活」の息吹はここで確かに芽生えた。
「感謝を結果で表す」でつかんだエースの座
椅子に座ってのピッチング練習に取り組む西村 佳祐(県立宮崎商業高等学校)
かくして次なる課題を「土台作り」において始動した現チーム。指揮官いわく「基本的に素直な子が多い」選手たちのベースは、秋を前に最も悩みを抱えていた投手陣の救世主出現につながった。
右サイドハンド・西村 佳祐(正しくは「示右」)(3年・171センチ70キロ・右投右打・宮崎市立檍中出身)。「一昨年の1年生大会は捕手。左肩の故障を転機に夏の宮崎大会1カ月前に捕手から投手に転向して、秋の県大会2回戦では日章学園を6回まで2点に抑えたんです」。東洋大時代は乾 真大(東洋大姫路出身・北海道日本ハム~読売ジャイアンツ)らと同期で学生コーチ。現在はOBかつ兄貴分的存在として選手たちを鍛え上げる橋口 光朗副部長がその経緯を説明する。
「練習にムラがない」と樋渡監督も高く評価する努力家の一端は、足の違和感を抱えていた取材日の練習にあっても「又吉 克樹(中日ドラゴンズ<関連記事>)さんを意識して、リリースを安定させるために」寸暇を惜しんでの「椅子座りピッチング」になって表れていた。「自主練習でもシャドーピッチングを繰り返しているし、同じ投手をしている自分にも刺激になっている」と話すのは副主将の木下 卓(3年・173センチ76キロ・右投左打・宮崎市立久峰中出身)。彼の姿勢はチームメイトも大いに認めている。
「自分は双子(弟は3年生の宗祐<正しくは「示右」>)なので、人一倍頑張らないといけないし、そうすれば周りにいい影響を与えられるし、みんなも頑張れる。だから妥協せずに頑張るんです」と涼しい顔で話す西村 佳祐。そこにはエースとして、さらに「親への感謝を結果で表したい」と野球ノートにも記している責任を負う覚悟が見て取れる。
頑張りを認め合い、自分の頑張りに変え8年ぶりの栄冠へ
主将・山村 秀太選手(県立宮崎商業高等学校)
もちろん「頑張りあう」意識はエースだけではない。「冬の体幹トレーニング中も『これをやったら勝てるぞ』と言い合っていた」と振り返るのは春を前に高校通算15本塁打を放っていた4番・黒木 一貴(3年・一塁手兼投手・180センチ87キロ・右投げ左打・宮崎リトルシニア出身)。秋の2回戦・日南学園戦では2番手で悔しい結果に終わった彼は「両立させないと道は開けない」と明言する。
「人のために頑張り、人の頑張りを認められるか。3年生は27人なので必ずベンチから外れる選手が出る。その時にいかに頑張りを認め合って高められるか。『お前の頑張りを見て頑張ろうと思える人が何人いるか』だよ。という話はいつもしていますね」
樋渡監督の言葉を常に胸に留めている選手たちの意思もまた強い。
「西村 佳祐を中心に守って、それぞれの打力を活かすのがチームカラー。自分は5番か6番なので、チャンスでの一本を出せるようにしたい」。黒木 琉聖(3年・遊撃手・165センチ70キロ・右投右打・清武ボーイズ出身)から始まったそれぞれの決意。
「小学校時代に甲子園で活躍する姿を見ていたし、県立高校で強豪を倒したい夢を持っていて、宮崎商が一番そこに近いと思って宮崎リトルシニア時代から志した」1番主将の山村 秀太(3年・二塁手・右投左打・161センチ61キロ)は最後にこう締めた。
「昨秋は状態がよくてもベンチに入れない選手がいたんです。そこで『あいつらの分まで』と思えたことで、1勝できました。さらに練習でもレギュラーとしてやっている以上、誰よりもしっかりとやっていく意識もできたので、夏は彼らの分まで戦っていきたいです」
道のりは険しい。2009年準優勝・2010年・2011年ベスト4の最速148キロ右腕・吉田 奈緒貴(JR九州)ですら成し遂げられなかった夏の宮崎大会栄冠。加えて取材後に開催された春の宮崎県大会では小林には初戦快勝も、2回戦では延岡星雲に3対4で惜敗。5月の第63回宮崎県高等学校野球選手権大会でも宮崎工に敗れ、残すは夏となった。
ただそれでも、彼らには心に確固たるものがある。昨年7月のチーム結成時に一塁側ベンチへ貼られた「妥協無縁」。この4文字に集約された「するべきこと」と「掛ける想い」を軸にして、宮崎商は最後の夏へのラストスパートへ入っていく。
(取材・文/寺下 友徳)
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