あの日のことは、おそらく一生忘れない。

 今から27年前のドラフト取材のことになる。別府大附(現明豊)に球界を代表する捕手になるだろうと呼び声高かった選手がいた。そう、あの城島健司捕手のドラフト取材で、別府にいた。1994年11月18日。運命の日に心がざわつき、あわただしく取材したあの日のことは、色あせることはない。

 城島は高校通算70本塁打の長打力と、強肩に加え、脚力もあり、打てる名捕手への素質を兼ね備えていたが、本人は大学でさらに力をつけてプロ入りする気持ちを固め、駒大への進学を表明していた。しかし、ドラフト前日の17日に12球団スカウト会議でダイエー(現ソフトバンク)が城島を1位で指名すると表明。アマ側の反発が必至と、一時はコミッショナーも難色を示したが、ダイエーは翌18日のドラフト会議で城島を1位で強行指名した。

 ダイエー球団サイドは、もともとはプロ志望だったこともあり、交渉すれば入団させることができると思っていた。ドラフト前日から城島サイドを取材していた。もちろん、そんなダイエーの動向もあってのことだった。予測していたこととはいえ、どうなるのだろうと、記者4年目だった当時は心がドキドキしていたのを覚えている。結局、数日後に城島の憧れの存在でもあり、翌95年からダイエーを指揮することが決まっていた王監督自らが説得に動き、ダイエーに入団した。球界では、いろんな噂が飛び交った。だから逆に取材、原稿に気を遣ったのを思い出す。

 一生忘れないのは、このことではない。ドラフト当日ではなく、翌日のことだ。土曜日で学校は午前中で終わった。なんらかの動きがあると信じて学校で待ち受けた報道陣を知ってか知らずか、城島は何も話さず、その日の内に佐世保の実家に帰って「家族会議」を行うことになった。

 別府から佐世保への移動。それは九州横断を意味する。当時、スマホの「乗換案内アプリ」などはない。時刻表をめくって、新聞、テレビ各社それぞれがルートを探していかに早く佐世保に着くかを競った。特急にちりんで博多へ帰り、特急みどりに乗り換えて佐世保へ向かうルートを選択した。単なる移動ではない、新聞社には原稿締め切り時間があるので、原稿を書きながら移動することになる。時代はようやくPCで原稿を書き始めた時期。今やあまりお目にかからなくなったグレーの公衆電話で、モジュールに電話線を差し込んで原稿を送るのが主だった。佐世保に移動するまではそのグレーの電話を使うこともできない。各社、佐世保についてから原稿を仕上げて送信していたが、自分だけ違った。

 今では当たり前のことだが、携帯電話で電波を拾って原稿を送った。佐賀を通過している途中で原稿は終わり、佐世保の実家には誰よりも早く着くことができた。結果的に、なにかいいニュースが取れたわけではないが、優越感に浸っていたのを覚えている。城島のドラフト取材がなければ、こんな「ドキドキ」する取材はなかっただろう。どこまでも追いかけていく。そんな泥臭い取材ができたことを幸せに思う。

 城島はその後、本当に球界を代表する捕手になった。その活躍ぶりは、今更書くまでもない。ソフトバンクに戻って特別アドバイザーに就任し、フロントとして、球団だけでなく、球界までも変革していこうとしている。あの日、ダイエーが城島を強行指名したことで、翌年からはプロ拒否表明の選手を指名できないルールができた。衝撃のドラフトの主人公が、今度は衝撃を起こす側になるのか。もう「どこまでも追いかける取材」はしなくなったが、頭の中でどこまでも追い続けていくだろう。

(記事=浦田由紀夫)