目次

[1]生活の中に野球があるのが当たり前だった少年時代
[2]厳しい練習と上下関係。壮絶だった高校時代
[3]住宅メーカーに就職し高卒1年目から実績を積む
[4]野球を通してメンタルが強くなった

厳しい練習と上下関係。壮絶だった高校時代



高校時代の八島さん(右)

 誘いを受けた中で、八島社長が選んだ高校が北海道桜丘だった。だが当時の北海道桜丘は厳しい練習と上下関係が有名な高校の一つで、進学を決めて入寮の意思を担任に伝えた際も担任の先生に驚かれたという。

 「実は中学3年の11月に母親が事故で亡くなりました。母親は生前に『北海道桜丘に野球で進学して欲しい』と周りに話していたそうで、その思いを叶えたいと『母親の遺言だから行きます』と先生に伝えました。それでも先生はお前本当に行くのかと止めてきたので、よっぽどだったのだと思います」

 実際、いざ入学するとその練習量と上下関係は想像していた以上だった。

 最初の練習では嘔吐するほど追い込まれ、寮生活も心が休まる時間はほとんど無い。1年生の時は上級生よりも早く寮を出て、授業が終わるといち早く寮に戻りグラウンド整備をして上級生を迎える。北海道桜丘は学校とグラウンドは丘の上にあり、麓から学校までは約2キロの登りとなっている。その登りを利用したランニングメニューやトレーニングは八島社長も「二度とやりたくない」と口にするほど。

 練習後も寮では「寝るまでマッサージ」と呼ばれる、練習で疲れた先輩の身体を隅々までマッサージしてその先輩が眠りにつくまで続けるという「仕事」があった。深夜までマッサージを続けることも多々あり、睡眠時間を削られる日々だった。鉄拳指導が許された時代背景も含め、高校野球では強いハングリー精神が培われたと振り返る。

 「一番は負けたくない気持ちがありました。私は1年夏からスコアラーでベンチに入り、2年生ではレギュラーになりましたが、試合に出場できなかった先輩は面白くないですよね。毎日焼きを入れてくる(鉄拳指導する)先輩もいて、野球だけでは負けないようにと思っていました」

 強烈な練習量と上下関係を乗り越えて、最上級生でもレギュラーとして活躍した八島社長。

 ちょうど同期には実力のある選手が集まっており、2年生からレギュラーだった選手が6人いるなど甲子園出場を期待されていた代だった。秋季北海道大会では惜しくも準決勝で敗れたが、春季北海道大会では見事優勝。夏の大会前のスポーツ紙の番付表では優勝候補筆頭の二重丸がついており、「夏こそは」と誰もが意気込んでいた。

 だが、結果的に再び準決勝ではね返されて甲子園出場はならなかった。主力選手が直前の怪我で出場できず、チームが機能しないままの敗戦となった。甲子園出場は叶わず引退となった八島社長は、不測の事態に備えて常にフォローする準備の大切さを学んだという。

 「高校時代、自分たちの代はいつも大事なところで主力選手が怪我で出場できなくなっていました。そうすると、誰かが代わりを務めるしかありません。代わりを務められるように、事前に準備をしておく必要がありました。そうしたフォローしていく気持ち。それは、野球から学んだことかもしれません」