7年間待った甲子園、そして日本一 帝京大・山崎陽平が大学準硬式で気づいたこと 「横浜隼人の3年間も生きている」
2023年は大学準硬式にとって節目の1年だった。創設75周年を迎え、甲子園で初めて大学準硬式の全国大会が開催された。そんな歴史に残る1年を締めくくる9ブロック大会の決勝は、延長10回タイブレークの末に、関東選抜が優勝を飾った。
日本一になる瞬間を、背番号10を付けた関東選抜の主将・山崎陽平投手(帝京大=4年)は7年間待った。
「高校時代、隼人で過ごしていた時から日本一になるってことを目標にやっていましたけど、1年生の時から『やっぱそんな簡単ではないな』っていうのを感じていました。
実際、甲子園に行けなかったのでやっぱり簡単じゃなかったですけど、大学準硬式で甲子園に行けて、日本一にもなれた。この結果は大学準硬式の4年間だけじゃなくて、日本一を目指した隼人の3年間も生きていると思います」
山崎が言う「隼人」というのは、母校・横浜隼人高校だ。
高校野球ファンならば誰もが知っている名物に、「隼人園芸」と呼ばれるグラウンド整備がある。自校のグラウンドを使った公式戦での整備中には「今ありて」や「栄冠は君に輝く」なども流す。甲子園を強く意識した神奈川が誇る名門校である。
山崎はそんな名門で最後の夏、ベンチ入りを果たした。ただ立ち位置は4、5番手投手。「本当にギリギリベンチに入るかどうかの選手だった」と苦々しく振り返る。決していい思い出ばかりではないが、感謝の思いもある。
「1年生から『常に上を目指す』っていう気持ちはずっと持っていたんです。それが今も消えなかったんです。だから今回、こういう場に携わることができたので、常に上を目指して頑張って良かったなと思います」
山崎は高校時代、最速130キロほどしか投げられない右サイドスローの投手だった。しかし、横浜隼人で養った向上心、さらに帝京大で主将になったことで芽生えた責任感のおかげで、最速145キロまで更新。2年連続で甲子園大会のメンバーに選出された。
高校時代に届かなかった夢舞台に2度も足を踏み入れ、多くのことを学んだ。
「去年、雨天中止が決まったときは『なんで今日に限って』ってすごく悔しかったです。でも同時に、色んな人の支えがあって成り立っていることに気が付いて。そこからは常に周りを見ることができるようになりました。『好きなことをできているのは 一体誰のおかげなんだろう』って あの日から考えられるようになりました。
だから今年、甲子園のマウンドに上がった時は、その場に相応しい結果を出すっていうのがどれだけ難しいか、と感じました。これから先まだ野球人生が続くので、そのときにどうやって結果を出せばいいのか。自分が追い詰められた時の気持ちの持ち方は勉強になりました」
卒業後は硬式野球に戻る。やることは沢山ある。けど、やる気は十分だ。
「硬式球に慣れるのはもちろんですが、まだまだ自分の可能性、改良の余地があると思っています。だから、そこを突き詰めて、もっともっとレベルアップしたいなと思います」
優勝インタビューでは、「自分はこれで引退ですが、大学準硬式出身であることは変わりありません。ですので、いろいろな場所で大学準硬式の発展のために貢献出来たらと思います」と語った。大学準硬式の看板を背負い、次のステージでの飛躍を期待せずにはいられない。
文・田中裕毅(大学準硬式評論家)