エースになれなかった中・高時代 転機となったサイドスロー 近畿大の152キロ右腕・村西良太【前編】
サイドスローに近いスリークオーターから繰り出す最速152キロのストレートが光る、今秋のドラフト候補・村西良太。大学通算奪三振率は10.98(今春のリーグ戦終了時点)。高い奪三振率を誇る、伸びしろたっぷりの右腕を直撃すべく、近畿大野球部グラウンドが位置する奈良県生駒市を訪ねた。
投手人生の大きな転機となったサイドスローへの転向
村西良太(近畿大)
「村西です。今日はよろしくお願いします」
全体練習終了後、グラウンドに隣接する近畿大野球部寮のロビーにておこなわれたインタビュー。丁寧な挨拶とともに筆者の名刺を受け取った今秋のドラフト候補は、少しはにかんだような笑顔を浮かべながらアイスコーヒーを口に含んだ。好青年オーラが印象的な大学4年生。佇まいはいかにも「普通の大学生」だが、ひとたびマウンドに上がると、最速152キロのスピードボールを繰り出す剛腕と化す。
「『体のわりにえげつない球投げるな』とはよく言われますね。高校の頃から言われていました」
「今日は村西投手のこれまでの野球人生についてもいろいろとお聞かせください」
「わかりました!」
兵庫県・淡路島で生まれ育った村西。地元の軟式少年野球チーム「佐野ドルフィンズ」に入団したのは小3の時だった。
「たまたまグラウンドでチームが練習しているのを見る機会があったのですが、すごく楽しそうだなと思って。気づけば『自分もやりたい!』という気持ちになっていました。ポジションは1番最初がセンターで上級生になるとピッチャー兼ショート。当時はオーソドックスなオーバースローで投げていたのですが、コントロールがすごく悪くて…。肩は強かったので球はまぁまぁ速い方だったのですが」
中学では硬式クラブの「アイランドホークス」でプレー。1年秋からは投手も務めるようになったが、監督の勧めで腕の位置を下げたところ、制球力が大幅に向上した。
「監督に『腰の回転がサイドの使い方だから腕を下げた方が合う』と言われ、オ―バースローからサイドスローに限りなく近いスリークオーターの位置まで一気に腕を下げたところ、ボールのスピードはそのままで、コントロールがかなりまとまるようになったんです。すぐに『腕を下げたフォームの方が自分に合っている!』と思えましたね。以来、腕の位置は今日までずっと同じ。腕を下げるなんて自分ではおそらく考え付かなかった。自分にとっての大きな転機のひとつだと思っています」
[page_break:エースにはなれなかった中・高時代]エースにはなれなかった中・高時代
村西良太(近畿大)
しかし中学時代は1学年下に村上頌樹(現・東洋大)がいたこともあり、最後までエースの座はつかむことはできなかった。
「中2の時にスピードを測ったことがあるのですが、その時の最速は116キロ。チーム内では実質3番手投手でした。自分に自信はなく、野球は中学で終わるつもりだった。高校は自宅から近い、公立の津名高への進学を早くから希望していましたが、うまい選手がたくさん集まってくるし、レギュラーをとるのはきっと無理だろうなと。野球が嫌いなわけではなかったのですが、高校ではもういいかなぁ…と思っていました」
ところが、同級生に誘われ、軽い気持ちで津名高野球部の練習体験に参加したところ、「抜け出せない空気になってしまった」と村西。
「『中学の時に硬式クラブだったし、当然入部するんやろ?』みたいに周りから言われて。『これはもう高校でもやるしかないな…』と腹を決めました」
中学卒業時のボディサイズは160センチ48キロ。小柄で華奢な右腕の野球人生は高校のステージでも続くことになった。
津名高では1年秋から背番号11をつけ、ベンチ入りを果たしたものの、同学年に潮崎彰成(現・京都産業大)がいたこともあり、控え投手の立場を脱することはできなかった。2年秋には近畿大会に進出。対箕島戦で先発・潮崎の後を受け、4点ビハインドの場面でマウンドに上がると、6回三分の二を投げ、5安打、4奪三振、無失点。最速スピードは143キロ。この試合の投球が高く評価されたことが、「近畿大進学につながった部分はあると思う」と村西は語った。
ところが高校2年の秋、村西は右ヒジ痛との戦いを強いられていた。
「秋の県予選始まったあたりからずっと痛くて。なんとか秋は投げ切ったのですが…」。年が明けても故障との戦いは続き、3年春、夏の公式戦登板はわずか2イニング。完全燃焼とはほど遠い形で高校野球生活は終わりを告げた。
「大学で野球を続けると決めていたことで、満足に投げられない日々を我慢できた部分はありました。幸い、高校野球を引退してから大学入学までの間にヒジ痛は完治。『大学で借りを返すぞ!』という思いでしたね。プロへの意識? この時はまだ全然なかったです。皆無でした。甲子園大会をテレビで見ていたら143キロを投げる投手なんていくらでもいましたから」
(記事=服部 健太郎)
前編はここまで。後編では大学入学後の悩みや、3年秋以降の飛躍の理由について聞きました!