客観視できる姿勢が万能型野手へ成長させた 水谷祥平(龍谷大平安)【前編】
秋の近畿大会を制した龍谷大平安で主将の重責を担っている水谷祥平(新3年)。昨夏は1番打者として[stadium]甲子園[/stadium]に出場し、[stadium]甲子園[/stadium]通算100勝目となるサヨナラのホームを踏んでいる。[stadium]甲子園[/stadium]を経験して大きく成長した水谷は抜群のキャプテンシーを発揮してチームを2季連続の[stadium]甲子園[/stadium]出場へと導いた。
熱くチームを引っ張る水谷のこれまでの高校野球生活、そして23日に開幕するセンバツへの意気込みを語ってもらった。
全国優勝を目標に伝統校のユニフォームに袖を通す
ティーバッティングをする水谷祥平(龍谷大平安)
水谷は野球をやっている兄の影響で幼稚園の頃から野球に親しんでいたという。その流れで自然と、小学1年生で軟式野球チームの亀岡リトルイースタンに入って野球を始めた。中学時代は京都東山ボーイズに所属。最高成績は全国大会16強だった。
龍谷大平安への進学を希望したのは、中学入学を控えた5年前。その年のセンバツでは龍谷大平安が河合泰聖(現・中央大)らの活躍で全国制覇を成し遂げていた。京都府亀岡市出身の水谷にとって龍谷大平安は憧れの存在。「河合さんの代が春で日本一になられたので、自分もそこを目指したい」と思うようになった。体験会を経て入学を許可された水谷は迷わず進学を決意。憧れていた平安のユニフォームに袖を通すことになった。
「高校のレベルを痛感して自分はまだまだだと感じましたね」と入学当時を振り返る水谷。当時の龍谷大平安は4番・岡田悠希(現・法政大)、5番・松田憲之朗(法政大入学予定)と並ぶ強力打線だった。彼らの打球を目の当たりにして「これが高校生の打球か」と思わされたという。
京都一の名門である龍谷大平安は入学直後の春季京都大会で優勝。だが、水谷が先輩の姿を見て学んだのは野球の技量だけではない。
「練習の態度や全員が一球に集中して取り組む姿勢は流石、伝統校でこれが強い秘訣かなと感じました。監督さんへの受け答えでなど、これが高校野球の姿かという感じでしたね」
野球への取り組み姿勢や目上の人への態度など野球人として大切なことを入学してから学んできた。1年秋にはベンチ入りを果たすが、レギュラー定着とはならなかった。
「足りない部分がたくさんあって、スタッフの方から見て使える選手ではなかったです。使う側からして『コイツ面白いな』という存在になることをずっと目標にしていました。使って頂くこともあったんですけど、やっぱり大事な試合だったりすると自分が出られない。力がないと感じました」
期待されながらもあと一歩でレギュラーを掴めないというもどかしい日々が続く。だが、そんな中でも「足りない部分を補って、何か一つでも伸ばしていこうと思って練習に取り組みました」と地道に努力を重ねてきた。
ハラハラドキドキだった2年の夏の甲子園
トレーニングを行う水谷祥平(龍谷大平安)
2年夏の京都大会も背番号9を貰いながら序盤はベンチスタートが続いた。それでも4回戦の大谷戦からスタメンに名を連ねると、見事に結果を残してその後はリードオフマンに定着する。1番打者を固定できた龍谷大平安は圧倒的な強さで京都大会を勝ち上がり、[stadium]甲子園[/stadium]の切符を掴んだ。
[stadium]甲子園[/stadium]の1回戦で対戦したのは鳥取城北。龍谷大平安はこの試合で勝てば[stadium]甲子園[/stadium]通算100勝という大偉業がかかっていた。試合は緊迫した展開となり、同点のまま9回裏に突入する。延長突入目前の2死から水谷が四球で出塁すると、立て続けに二盗、三盗を決めてサヨナラのチャンスを演出。この時を水谷はこう振り返る。
「走る前に絶対いけると思っていました。中途半端にすると結果は出ないので、思い切っていきました。3年生のために何とか自分が貢献したいというのが強くてあのような盗塁になったのかなと思います」
思い切ってスタートしたことがチャンス拡大に繋がった。その後、安井大貴の適時打で水谷はサヨナラのホームを踏む。
「ハラハラドキドキした1回戦だったんですけど、100勝というのを達成して喜びすぎて何が何だかわからなくて曖昧な感じです。本当にあったのかという感じでした」とホームインした瞬間を振り返ってくれた。
しかし、水谷にとって印象に残っていたのは鳥取城北戦よりも敗れた3回戦の日大三戦だったという。
後編ではもっとも印象に残っているという日大三戦の当時の状況を振り返ってもらい、今年の選抜への意気込みを語ってもらった。
文=馬場 遼