斎藤佑樹が歩んだ早実の3年間 「打たれた経験も、猛勉強した経験も成長には欠かせないものだった」【前編】
平成30年度指導者講習会が開催された。今回のパネリストは斎藤佑樹投手となった。2006年、早稲田実業のエースとして夏の甲子園優勝に貢献。駒大苫小牧の田中将大投手との投げ合いは高校野球を熱狂させ、今でも語り継がれるほどだ。そんな斎藤投手は「わたしと高校野球」をテーマに自らの言葉で思い出深い3年間を語る。
早稲田実業入学のきっかけ
斎藤 佑樹
僕が野球を始めたのは小学1年生の時でした。小学4年生の時、あの松坂大輔さんが甲子園で活躍します。僕は松坂さんの影響を受けて、甲子園に出たい、プロに行きたいという思いを強くしました。
しかし生品中学校に進む時、ある問題に直面します。僕が中学生のときは、中学軟式の人数が減り始めている頃で、僕の(地元の)ような田舎の中学は、廃部になってしまうかもしれないぐらい人数が少なく、入学したときは、小学校の時から一緒にやってきた捕手の選手しかいませんでした。なので、部員を勧誘しながら、10人ほど集めて活動することができました。しかしもう1つ問題がありまして、顧問の先生はバレーボールしかやったことがなく、野球未経験でした。
そのため、僕はチームの主将を務めていたのですが、練習メニューは僕が考え、試合中のサインは僕が出すこともありました。大変だと思われますが、楽しかったです。なぜかといいますと、自分で考えて野球をやることが楽しかったからです。
そして僕が早稲田実業を目指すきっかけについてお話いたします。中学3年生の時、僕を見ていたのが早稲田実業の監督・和泉実先生でした。和泉先生からお誘いの言葉をいただいたのですが、「早実に100パーセント合格できる保証はないよ。とりあえず受験してみたら」という内容でした。
このことを中学の先生に話をしたら、「早稲田実業は10年も甲子園から遠ざかっている。早稲田実業に行くよりも群馬の名門に行ったほうが甲子園に近い」と反対でした。それでも僕が早稲田実業に行きたいと強く決心したのが中学3年生の時に観に行った早慶戦です。
早稲田大学には鳥谷敬さん(阪神)、青木宣親さん(東京ヤクルト)がいました。鳥谷さん、青木さんのプレーを見たり、応援団の熱気を直に感じて、「早稲田実業に進んで、そして早稲田大に行きたい!」と強く思い、受験を決断しました。その後、合格することができ、早稲田実業に入学することができました。
[page_break入学直後に直面した3つの問題]入学直後に直面した3つの問題
斎藤 佑樹
早稲田実業に入学した時、3年生投手の人はプロ注目投手として取り上げられていて、その先輩は最速145キロのストレートを投げていました。先輩を見て、僕の中では「145キロまでいけば、プロ注目投手と呼ばれるまでになるのかな」とぼんやりと浮かんでいました。
しかし早稲田実業の野球部で活動するうえで困難だったことが3つありました。まず通学です。入学当初、僕は群馬の実家から2時間半もかけて通っていました。最初はやる気も満ち溢れていますから、頑張れるだろうと思い込んでいたのですが、練習時間も長くなって夜も遅く、勉強もままなりません。さすがに限界で、入学から2か月後、大学受験を控えていた兄と一緒に学校近くに住むことで解決しました。
次に栄養面です。兄と2人暮らしですけど、コンビニの弁当で済ませたり、疲れのあまり、帰ったらすぐに寝ることもありました。それから(しばらくして)自炊ができるようになり、今では栄養面にかなり気を遣っていますが、あの時もう少し栄養面に気を遣っていければ、さらに体を大きくすることができたのかなと思っています。
3つ目は進級問題です。僕はスポーツ推薦で早稲田実業に入学しましたが、一般生徒の偏差値は75です。僕はその生徒たちと同じクラスで、同じテストを受けるわけです。はっきりいって難しかったです。赤点も多かったです。このままでは留年になるかもしれない。実際、僕の同期にそういう人もいました。留年になれば野球ができず、甲子園、プロどころではない。両立するために勉強への努力は野球以上だったと思います。
そのきっかけを与えてくれたのが当時部長だった佐々木慎一先生でした。佐々木先生から「一緒に勉強しよう」と声を掛けられ、佐々木先生は自宅から学校まで1時間もかかるのに、それでも毎朝付き合っていただきました。佐々木先生の担当は数学ですが、日本史、英語、地理、生物などいろいろな科目を教えていただきました。
先生には苦手なことも頑張れば乗り越えられることを教えてくれました。その後もつらい経験も多くありましたが、それでも乗り越えられたのは、この経験があったからこそだと思います。
[page_break転機となった2年夏の日大三戦の敗戦]転機となった2年夏の日大三戦の敗戦
当日は会場に駆けつけていた和泉 実監督
そして野球の面ですが、順調に進んでいて、高校2年生のときには背番号1を獲得して、球速も142キロまで伸びました。夏の西東京大会では準々決勝で完封。次の日大三にも勝てると思うし、甲子園に行ける…。そんな甘い考えがありました。しかし日大三戦では8失点KO。自分の実力が通用しない、自分のレベルが足りないと感じた試合でした。
それから日大三は夏の甲子園ベスト8まで行きましたが、新チームがスタートして僕の思いは全国制覇をすることが目標になりました。同時に日大三を抑えられる投手になることがその目標に近づくと考えました。そのためには自分のピッチングのレベルを上げないといけません。
転機となったのは和泉先生、捕手の白川英聖との話し合いです。「日大三を抑えるためにはどうすればいいか考えてみよう」と先生から問いかけてくれて、話し合いが始まりました。
先生からはストライクゾーンを9分割して、得意とする球、投げられる球、苦手な球を考えていこうとアドバイスをもらいました。僕が得意とする球はアウトコースストレート、苦手とするのはインローでした。インローは捨てて、投げられるコースで勝負していこうとアドバイスを受けてからすごいシンプルに投げられるようになりましたし、この時期から白川との息も合ってきました。
日大三打線の怖さは常にフルスイングができること。そんな打線は高校生ではなかなかないですし、アウトコースばかりでは踏み込んで打たれてしまうので、内角にも投げないといけないと思って練習もしました。日大三を抑えるためにはフルスイングをさせない。それがテーマでした。
そしてもう1つ大事にしてきたのはセルフコントロールです。マウンド上ではポーカーフェイスといわれていますが、実はかなり短気です。それで損していることが今でもあります。1年生の時はかなりひどかったと思いますし、試合を壊すこともしばしばありました。でも日大三戦での負けから変わらないといけないと思って、気持ちをコントロールするようになりました。
前編はここまで。後編はいよいよ大フィーバーともなった高校野球最後の1年に、斎藤投手がどんな取り組みをしたのか?斎藤投手の試行錯誤をご紹介していきます。後編もお楽しみに!
文=河嶋 宗一