全員野球
第12回 全員野球2010年06月18日
選手を応援する大阪桐蔭スタンド
夏の本番まで1カ月を切った。
沖縄大会は明日19日に開幕を迎えるが、高校3年生にとっては、人生に一度しかない“最後の夏”がやってくる。7月に開幕を迎えるチームの多くは今が追い込みの時期であり、また、メンバー選考へ向け、最後のアピール時期でもある。大会でのベンチ入り総数は18~20名。今は、その定数を掛け、張りつめた緊張感の中での戦いを余儀なくされている。最後の力を振り絞って、一生懸命に野球に打ちこむ姿勢は、結果はどうであれ、人生を生きていく上での貴重な時間である。
それでも、やってくる。
メンバー発表という、一大事が、である。
しかし、大会を戦う上で重要なのは誰がメンバーになったか、だけではない。メンバーが決まった後にこそ、それぞれのチーム力が試されるのだ。夏を戦うメンバーと、そこから漏れた選手たちがいかに気持ちを一つにできるか、そこに、高校野球における一番大切なモノが存在するのではないかと僕は思っている。
「全員野球」――。
球児たちは声をそろえて言う。非常に聞こえのいい言葉だが、大事なのはその意味がどこにあるのかである。
試合に出ている選手が、誰か一人の力で戦うのではなく、つなぎの野球を徹することが全員野球のか、
出場している選手が気持よく戦うための環境をベンチにいる選手が作ることが全員野球なのか。
メンバーに入っている選手たちだけでなく、部員全員が同じ方向を向くのが、全員野球なのか。
捉え方で意味が違ってくる。
「レギュラーになって、一生懸命やる、ベンチに入って、一生懸命に声をだすんは当たり前のこと。レギュラーに外れた中でも、一生懸命やれるかどうか、教員の一人として、お前たちの姿を見ているからな」。
そう話していたのは第90回大会で2度目となる全国の頂点に立った大阪桐蔭高の有友茂史部長である。全国制覇をする前に、聞いたコメントである。
大阪桐蔭は「一球同心」という部訓のもとに動いている。それが定着してくるまでには時間がかかったというが、その意味を理解してからというもの、チームは変わり始めた。たとえば、夏の大会中の対戦校の偵察はメンバー外の下級生が行くのが常だったが、3年生のメンバー外が、自らの申告で行くようになった。
現メンバーが勝つために、一生懸命になって偵察することは、チームを一つにする。メンバー外の想いを感じれば、メンバーたちも自ずと力も入るというものだ。
事実、90回大会当時の大阪桐蔭ナインを取材していたとき、プレーしていた選手たちから聞こえてきたのは、「メンバー外のみんなが分析してくれた」という言葉ばかりだった。「メンバー外の力」を彼らは感じながらプレーし、頂点に立ったのである。
大阪桐蔭ナイン
これはあくまで一例である。無形の力がチームの心を一つにするために作用するということを、大阪桐蔭以外の学校でも、「全員野球」とそれぞれのスタンスで実践している。
たとえば、試合中のグラウンド整備にしても、その一端は見える。通常、レギュラーは試合に専念するために、試合中のグラウンド整備を手伝うことはなく、試合に出場していない控え部員がやることになる。それは、どのチームにも共通していると思うが、そんな状況下でも控え部員たちに「ありがとう」と一声でも掛けているチームには、実力以上の力があると感じることができる。
一つの方向を向いているな、と。
とはいえ、こうしたメンバー外や控えの行動は、例えば大会前の指導者の誘導でできるものではない。日ごろからのチーム運営であったり、もっといえば、メンバー外の人間性に寄るところもある。
ある人から、こんなことを指摘されたことがある。
「メンバーから漏れて、ナニクソ!って思うことがそんなに悪いことなの? 普通の人間の感情じゃないか。そこを否定するべきではない。実際、ある高校のメンバー外の選手で、『外れたからチームには勝ってほしくない』というのをいっているのを聞いた。『応援なんかしたくねぇ』って。悪くないことだよ。気持ちを一つにするとか、話しをつくりすぎじゃないか」。
一つの意見としては、分からないでもなかった。
しかし、こうも思うのだ。
3年間、メンバー入りを目指し、それが最後の夏、果たせなかったことだけで、その選手の高校野球は終わりなのかと。メンバーに入れなかったら、それまでの努力が水の泡になるのか、と。決してそうではないはずだ。人生に「勝ち組」「負け組」を作って、閉そく感いっぱいの現代社会と同じように、高校野球を捉えて良いのかと思うのだ。
人生はまだまだ続いていくのだ。最後の夏にメンバー入りできなかったことは、その当時では忸怩たる想いがするだろうが、そこで人生のすべてが決まるわけではない。むしろ、そこでレギュラーになったあまりに、プライドが邪魔をして、その後、消えて行った選手を何人も見ている。あくまで、「高校3年生の夏」限定で、メンバーから外れただけなのである。それからの人生はまだ築いていける。その忸怩たる思いを抱えながらに、チームのために、一生懸命尽くすことこそ、優れた人間力を構築できるのではないだろうか。
「全員野球」の意味を問いたい。
今、サッカーのW杯が開催されている。日本は初戦で、抜群のまとまりを見せて、カメルーンを破った。その戦いぶりの良し悪しはサッカーライターに任せるとして、僕が一番印象に残ったのは、予選まではエースと言われた存在だった中村俊輔が、途中で交代して退いてきた選手に上着を渡していたシーンを見た時だ。
これが全員でやるということなのだ。指揮官の戦術がうまくはまっただけではない。無形の力が作用したのだ。だから、初戦に彼らは勝てた。僕はそう思っている。
メンバー外の存在なくして、チーム力は上がらない。これから夏までの期間で、技術力が格段に上がるかと言うと、そう多くは期待できないだろう。その中で上がるとしたら、部員全員の気持ちを一つにすることで生まれる、プラスアルファだ。
「全員野球」という言葉の真の意味を大会までに、もう一度、考え直してほしい。その意味が分かれば、必ず力になるはずだ。この夏の戦いだけではなく、その後の人生にも、必ず生きる。
高校球児にはそのことを実践してほしい。
メンバーに外れて頑張れる人間こそ、本物の野球人である。
(文=氏原 英明)
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