福井商の独走から新時代到来、敦賀気比が新たな歴史を作り大変化【福井・2018年度版】
福井商の独走から新時代到来、敦賀気比が新たな歴史を作り大変化
今風の匂いを感じる敦賀気比のグレーの地にタテジマの入ったユニフォーム
北陸勢の悲願ともいえる甲子園の全国制覇、それを果たしたのが2015年春の敦賀気比だった。しかも、準決勝では夏春連覇を狙った大阪桐蔭を相手に2本の満塁本塁打などで11対0と圧勝するというもので、その強さが光った。
敦賀気比は、前年夏にもその大阪桐蔭とやはり準決勝でぶつかり、この時は序盤に大きくリードしながらも、跳ね返されている。改めて全国レベルの壁を身をもって感じさせられることになったのだが、それを見事にリベンジしての優勝となった。また、この優勝は日本ハム入りした平沼 翔太をはじめとして選手個々の学習能力と質の高さを見せたともいえるものだった。
東哲平監督が08年からコーチを務め、11年に監督に就任して以来、13年春、14年夏に甲子園のベスト4に進出を果たすなど上位常連校となっていた。その東監督は、97年夏と、98年の春、夏に甲子園出場を果たしているが、この頃から県内では、力を示し始めていた。
学校は86年に創立し、甲子園初出場は94年夏だった。福井県というよりも、隣りの京都府のボーイズ出身手が中心となってチーム強化が進められた。その成果が、早々に出たともいえよう。
敦賀気比が台頭してくるまでは、福井県の高校野球というと、まず福井商だった。県内では他校にとっては圧倒的な壁として立ちはだかっていたのだ。しかし、意外にも福井商出身のプロ野球選手はなかなか輩出されず、1994(平成6)年のドラフトで広島カープに5位で入団した横山 竜士投手が最初だった。
福井商は、戦前の1936(昭和11)年夏に、それまでは敦賀商(現敦賀)が独占していた県内で初出場を果たす。しかし、その後の出場は戦後の71年春まで待つことになる。以降、北野尚文監督が指揮を執り続け、78年春には準優勝を果たすなど、北陸勢で気を吐いた。96年夏、02年春にもベスト4に進出するなど、敦賀気比以前には全国でも結果を残していた。
チームとしては、洗練されているというよりも、昭和の匂いを残すかのような泥臭さが持ち味でもあった。北野監督が勇退して、オールドファンにとっては、少し寂しい思いもあるのかもしれない。
代わって台頭してきた敦賀気比はグレーの地にタテジマの入ったユニフォームで今風の匂いだ。選手たちも、少年野球時代から、名の知られた選手が中心である。それに、選手の体格も大きいし、プレーも洗練されており、スケールも大きい。
敦賀気比のライバル関係にある福井工大福井
福井県を引っ張るもう一つの存在
その敦賀気比と現在、県内で競う存在が福井工大福井だ。76年に春、夏連続出場を果たし、82年、85年夏と甲子園に出場を果たし、やや低迷期もあったが社会人野球で監督経験のある大須賀康浩監督が就任して03年夏に復活。以降は、敦賀気比とのライバル関係のような状況で福井県を引っ張っている。昨秋も、北信越大会で敦賀気比に敗れはしたものの決勝に進出している。
元々、男子バレーボール部が強豪で、全日本の監督も務めた荻野正二や現スーパーエースの清水邦広などを輩出している。女子の硬式野球部も発足させている。スポーツ強化の土壌は十分だ。
福井県は人口も少なく、地域的にも関西文化圏と北陸の都・金沢のある石川県に挟まれて地味な印象はぬぐいきれない。産業的にもこれといったものがあるではなく、時に話題となるのは敦賀の原子力発電だったりするくらいだ。ただ、日本を代表するエンターテイナー五木ひろしや、バレーボールの全日本のスーパーエースを長く務めて日本代表の監督となっている中垣内祐一(藤島→筑波大→新日鐵)などを生んだ県でもある。
かつては福井商を追いかけて若狭や三国なども健闘していたが、近年は公立校では大野東と勝山南が統合して11年に創設された奥越明成が台頭。躍進著しいのは13年春に初出場した春江工が翌年に県立4校で再編されて誕生した坂井であろう。17年夏には新校名で初出場している。
また、秋季大会ではその坂井を決勝で下して初優勝した金津、福井女子が共学校となり12年に創部して強化を図っている啓新なども新勢力となってきている。
(文:手束 仁)