「投手人生を大きく変えた桐蔭横浜時代」 遅咲きの153キロ右腕・齋藤 友貴哉(Honda)【前編】
今年の社会人を代表する速球投手といえば、Hondaの齋藤友貴哉投手だ。184センチの長身から投げ込む速球の最速は153キロ。Hondaの主戦投手として2年間活躍を見せてきた。そんな齋藤は高校時代は控え投手。それもほとんど公式戦での登板がない投手だった。齋藤はいかにして才能を開花させたのか。野球を始めてからこれまでのストーリーを振り返っていく。まず前編では社会人入りするまでの軌跡から。
控え投手で終わった高校時代。野球は高校で終わるつもりだった
齋藤友貴哉
齋藤が野球に出会ったのは小学校3年生。齋藤が入った少年野球チームで同学年が9人しかいなかったこと、投手がいなかったこと、そして身長が少し大きかったということもあり、投手を任されるようになった。まず速い速球を投げたい気持ちが強かった。
「あまり試合も作れず自滅ばかりだったので、とりあえず速い球を投げようと。小学生って速い球がモチベーションじゃないですか。ですからそういうところにしかこだわってなかったです。ピッチャーの面白さとして、抑えて勝ったら最高なんですけど、なかなか勝てなかったので。勝っても県大会は結局行けなかったので、“思いきり投げる”という楽しさでやっていました。」
そして東根第二中では軟式でプレーし、2年生からベンチ入り。最後の夏では地区予選を勝ち抜き、目標に掲げていた大会に出場するも、初戦敗退だった。
高校で山形中央を選んだきっかけは、県立の強い学校へ進み、甲子園に出場したいという思いからだった。
「山形で強いチームといえば、日大山形、酒田南、羽黒、東海大山形と私学が中心。公立は、山形中央でした。山形中央で甲子園に行きたいと思いました。」
さらに1学年上の横山雄哉(阪神)の存在も大きかった。
「甲子園でのピッチングを見て、カッコいいなと思っていたので。中学生の時たまに山形球場まで行って高校野球を観ていたので、山形中央のユニフォームも(カッコいいな)と思いましたし、中央野球のプレーにも結構憧れて入学を決めました。」
入学すると、山形中央のレベルの高さに驚かされた。
「レベルが高いし、野球がすごく熱いんです。一つ一つのプレーが熱くて、最初は自分に合ってるのかなと思いながらやっていたんです。先輩たちがすごいレベルが高くて、それでもなんとかベンチに入りたいなと思いながらやっていました。」
また憧れていた横山とは、一緒に付き添って多くのことを教えてもらっていた。
「横山さんには可愛がってもらっていたというか、いろいろ教えてもらっていました。自分は憧れにしていたので、横山さんの下半身を沈み込ませるフォームを真似したりしていました。(そうすることで)結構よくなっていました。」
齋藤は高校時代、最速139キロの速球を投げる投手にまで成長するが、最後までエースにはなれなかった。同級生には須貝勇哉(元王子野球部)がいたからだ。公式戦はほぼ登板がなく、最後の夏も悔しい思い出しかなかった。
「1回戦では7回途中から登板して、2回を投げて0点に抑え、2回戦では1回投げて打たれて終わったんですけど、それが僕にとって最後の登板となりました」
最後の夏が終わると、斎藤は野球を辞めるつもりだったと告白した。
「野球を続ける気はあったんです。高卒で硬式の社会人に行きたくて。でも行けるところが無かったので、大学もいくつもりもなくて、山形で就職しようかなと思っていたんですけど、桐蔭横浜大の齊藤監督から声をいただいていたので決めました。」
斎藤が桐蔭横浜大に行くきっかけになったのは、5月の桐蔭学園(神奈川)との練習試合だった。
「毎年5月ぐらいに桐蔭学園のグラウンドで、桐蔭学園と健大高崎と山形中央で、3校定期戦みたいなのがあったんです。それで、桐蔭学園との試合の時にたまたま桐蔭横浜大の齊藤監督がブルペンで自分の球を見ていて、ちょっと挨拶されて、試合を観て『どうだ』と言われたんですけど、最初は行く気は無くて。大学に行く気はまったく無かったんです。」
もしここで投げる機会がなければ、今の齋藤はなかったかもしれない。齋藤の野球人生にとって大きなターニングポイントだったのである。
[page_break:ピッチング禁止令も下った下級生時代]ピッチング禁止令も下った下級生時代
ボールをこねる齋藤友貴哉
いざ桐蔭横浜大に入学すると、ここでもレベルの高さを痛感する。
「レベルが高すぎました。自分が高校3年の秋の時に神宮大会で優勝して日本一になって、自分が入った年の4年生が優勝したときの中心メンバーだったので、レベルが高すぎて、圧倒されました。」
最上級生には横山弘樹(広島東洋カープ)、小野和博(SUBARU)がいた。対して自分は高校まで2番手投手。先輩投手や同級生たちの投手との力量差を感じて、使えない投手だと感じた。
「ただ球をブン投げてたみたいな投手でした。1年生の仕事としてバッティング投手があったので投げていたのですが、よくデッドボールを当ててしまっていたので、それでバッティングピッチャーは禁止になりました。」
バッティングピッチャーは1年生の6月に禁止。さらに10月にもピッチング禁止令が出た。禁止令が解かれたのは2年生4月だった。それまでキャッチボール、ネットスローを繰り返しながら、制球力を磨いた。
「結構長い間ネットスローをやっていました。禁止令が解けるまでピッチングをしてはダメと言われていたので、ネットスローでネットに思いきり投げて、その距離をどんどん伸ばしていったら、そこからだいぶ良くなってきました。」
ピッチング禁止令が解かれてから4か月後が経った2年生の8月。齋藤は大きなチャンスをもらえる。毎年8月に横浜DeNAベイスターズ、神奈川の大学、社会人と対戦する「神奈川交流戦」が行われるが、そこで、MHPS(三菱日立パワーシステムズ)戦で先発するチャンスが巡ってきたのである。
「それで齊藤監督に『MHPSの先発をさせてやる』と。『だからお前は青森キャンプには行かずにこっちでしっかり投げてろ』と言われて、ピッチング練習をしていました。それで先発させていただいたんですが、結局全然ダメだったんです。2回と2/3ぐらいを投げて4失点ぐらいとられて降板しました。でも、期待はしててくれてるのかなと思って、そこからいろいろなことを頑張りました。
悔しい結果になったとはいえ、レベルが高いチームに投げた経験は、齋藤にとってさらにレベルアップしたい意欲をかきたてた。
「2年秋ぐらいから筋力トレーニングを本格的にやって。ウエイトを主にやりました。ベンチプレスとかスクワットがメインで。学生トレーナーがいたので、同級生と一緒にやっていました。」
ウエイトトレーニングはチームのメニューにあったが、1年生の時はただメニューをこなして満足していたところがあった。神奈川交流戦後に、「意識をもってやらなければならない」と齋藤をやる気にさせていたのだ。
[page_break:意識を変え、最終学年に素質が開花]
意識を変え、最終学年に素質が開花
齋藤友貴哉
そしてキャッチボールのやり方も工夫した。
「キャッチボールはしっかりと50mぐらいなんですがライナーで強い球を放ろうと思っていました。それまでもいろいろ遠投とかしていたんですが、更にその50mのピッチングに力を入れて、重点を置いてやるようにしました。」
また、当時助監督だった萩原 康氏から学んだことは多かった。
「ピッチングでの左足の使い方を学びました。左足でしっかりと溜めを作って踏み出したときにうまく割れを作る。
またテニスラケットをよく振っていたんですが、ピッチングでなるほどと思うことをいろいろ教えてもらいました。
高校はピッチングコーチがいなかったので、萩原さんに訊いてすごく勉強になりましたね。」
3年生になり、投げる機会も多くなった。3年春にリーグ戦初登板。ただ肘痛もあり、2試合登板にとどまったが、秋まで体幹メニューを中心に取り組み、最速149キロまでレベルアップ。秋は3試合に登板し1勝0敗だったが、15イニングを投げて1失点、防御率0.53と抜群の安定感を見せた。そして4年春は4勝1敗、防御率1.01と優勝に貢献した。齋藤は戦力になれたことを喜んだ。
「嬉しかったです。桐蔭横浜もここ8年ぐらい春秋どちらかは絶対優勝しているので、その力になれたということがすごく嬉しかったです」
そして大学選手権では中京学院大戦に登板。2.2回を投げて無失点と結果を残し、その年のドラフトで巨人に1位指名された吉川尚輝とも対戦した。こうして充実の4年間を過ごした斎藤は社会人・Hondaへ入社する。
高校、大学でレベルの高さに圧倒されてきた齋藤だがHondaに進んでもそのレベルの高さを痛感する。
「まずピッチングで福島 由登さんは、投げるところにビタビタでいっていて、真っ直ぐもスライダーも“わあ、凄いなー!”と。社会人はこんなピッチャーばっかりなのかなと思って、またそこから頑張るようになりました。」
ここで齋藤はさらなるレベルアップを決意する。そして齋藤の社会人2年間の成長に欠かせない人がいる。それが、筑川力希也コーチだった。
前編まではここまで。後編では社会人2年間の成長の軌跡。そして齋藤投手を見守ってきた筑川コーチの話も交えていきます。お楽しみに!
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文=河嶋宗一