帝京高校の練習手伝いがすべてのスタートに



前田三夫監督(帝京)*2019年秋季都大会 創価戦より

 千葉県袖ケ浦市、半農半漁の家の三男として育った。49年6月6日生まれ。物心ついたころには、郷土の英雄・長嶋 茂雄にあこがれて白球を追っていた。木更津中央(現木更津総合)3年だった67年夏、千葉の準決勝まで進んだが、成東に敗れて東関東大会進出(まだ1県1代表ではなく、千葉と茨城で1代表を争っていた)はならなかった。1対3。成東の遊撃手が、のち阪神で活躍した中村 勝広で、木更津の1点は、一塁を守った前田さんのスクイズだったという。ちなみにこの夏、東関東から甲子園に進んだ習志野は、全国優勝を果たしている。エースの石井 好博は、のちの75年夏、母校の監督としても優勝。現在のところ、優勝投手にして母校を率いて優勝しているのはこの石井だけだ。前田さんとは中学まで、同じ房総地区でしのぎを削っていた。

 高校卒業後の前田さんは、東京・小平市にあるブリヂストンへの就職が決まっていたが、縁のあったスポーツ用品店から「帝京大の野球部が選手を募集している」と聞いてセレクションに参加する。帝京大は66年に創部し、67年秋に初めて首都大学リーグ2部に参入したばかりの新興チームだ。前田さんはそのセレクションに合格し、野球部の3期生として帝京大に進むことになる。68年のことだ。

「高校も3期生で、名前が三夫で、3には縁があるんですよ(笑)。ただねぇ……大学に入ったはいいものの、当時はグラウンドもなく立川、府中、八王子……と練習場所は日替わりです。上級生は2学年しかいなかったけど、だから逆に、上下関係は厳しかった。それでも、入学した年の春には2部で優勝して、秋からは1部。3学年しかいなくてそれだから、そこそこ強かったんでしょう。私はベンチにも入れませんでしたけどね。さらに翌年、下の代が入ってきたら総勢100人くらいになって、2年、3年になってもまるっきりベンチ外でした。
 4年になる前かな。春のリーグに備えてメンバーが合宿に行っている間、メンバー外のほかの選手たちも帰省したりなんなりで、居残りは私を含めてほんのわずかになった。それだと満足に練習できないから、自分の練習もかねて、帝京高校の練習の手伝いに行きたい、と監督を通じて申し出たんです」

 それが、半世紀に及ぶ監督人生の始まりになるとは、このときの前田さんは思ってもいない。そのころの東京の高校野球は、日大勢の天下だった。たとえば69年の夏から72年の夏まで、一高、三高、桜丘の日大勢以外で甲子園に出場したのは70年春の堀越しかなく、それにしても日大三とのアベック出場だ。当の帝京といえば、68年夏の4強が目立つ程度で3番手、よくて2番手グループがせいぜい。曲がりなりにも、首都リーグ1部のプレーを日常から目にしている前田さんからすれば、とても甲子園を狙うレベルとは思えなかった。

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