目次

[1]小学校4年から「決められていた」PL学園への道
[2]先輩投手が喜ぶことを考えて掴んだ正捕手の座
[3]見守るとは「タイミングを見る」こと
[4]嘘をつかない高校野球にして欲しい

 大阪・藤井寺駅から徒歩3分。藤井寺一番街商店街のアーケード内に、かつて甲子園を沸かせた豪傑たちから、こよなく愛される寿司店がある。

 店名は「ふじ清」。
 テイクアウトが中心だがカウンター席も少数あり、店内は地元民や常連客で賑わっている。

 この老舗を経営するのが、清水孝悦さんだ。
 清水さんは栄華を誇ったPL学園野球部の出身で、3年時には主将として春夏連続で甲子園準優勝を経験。大学卒業後もコーチとして14年間グランドに立った。

 松井稼頭央(埼玉西武2軍監督)に福留孝介(阪神タイガース)、平石洋介(福岡ソフトバンクコーチ)や今江敏晃(東北楽天コーチ)とプロに送った教え子は数多く、オフシーズンには現在でも多くのOBが清水さんの元を訪れる。

 今回はそんな清水さんに、経営者の視点からPL学園での3年間を振り返っていただいた。
 熾烈なレギュラー競争にひりつくような寮生活、そして主将として2度の甲子園準優勝に導いた経験は、経営者である現在にどんな影響を与えたのだろうか。

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小学校4年から「決められていた」PL学園への道


 小学校3年時に、父の影響で野球を始めた清水さん。
 野球経験こそ無かったが、近鉄バファローズの合宿所の食堂で選手たちの食事を作っていたこともあり、野球界との繋がりも非常に深かったと父の姿を懐古する。

 「淡路島出身だった父は、洲本高校に同級生がいて選抜甲子園で初出場初優勝しているんです。その中には、社会人野球、当時の職業野球にいった選手もいたそうで、『芸は身を助ける』と僕には絶対野球をやらせようと思っていたみたいですね。

 とにかく厳しくてね。僕にはどうしても甲子園に行って欲しいと思っていたみたいです。
 ホンマに星一徹みたいなオヤジでした」

 その後、父は寿司屋を開店したが、お店には野球関係者も多く足を運んだ。 その一人が、PL学園野球部の初代監督であり、当時スカウトを務めていた井元俊秀氏である。この繋がりが、後に清水さんを「PL学園の主将」へと導いていくのだが、実は清水さん、元々PL学園への憧れなどは一切無く、むしろ行きたくないと思っていた。

 厳しい練習や寮生活は、中学生だった清水さんの耳にも入っており、また中学時代の友人と離れることも不安だった。
 遊びたい年頃でもあった清水さんにとって、PL学園入学は避けたい道であったが、「僕に選択肢はなかった」と笑って振り返る。

 「もう親父と井元先生の間で決まっていましたね。僕が小学校4年の時からすでに。
 覚えているのがリトルリーグの練習終わって帰ってきた時に、お店に井元先生と教祖様がいらっしゃっていたことです。ユニホームで帰ってきた僕に教祖様が、『野球やってるんか、ならウチにきなさい』と言いました。それがすべての始まりでしたね」