健大高崎vs鳴門
鳴門、センバツでの収穫と加わった「使命」
今年で84回の歴史を数えるセンバツでも初めてとなる2試合連続延長サヨナラ勝ちを収め、学校としては1970年(昭和45年)の第42回大会でのベスト4以来、42年ぶりのセンバツ・ベスト8に進んだ鳴門。このベスト8は徳島県勢では夏を含めても2005年(第87回大会)の鳴門工(現:鳴門渦潮)以来7年ぶり、センバツに限れば2003年(平成15年)第75回大会の徳島商以来9年ぶりの快挙である。
さらに言えば四国勢が2勝をマークしたのは2008年(平成20年)センバツの明徳義塾以来4年ぶり。ベスト8以上は2007年(平成19年)第79回センバツの室戸(高知)、夏の第89回大会の今治西(愛媛)以来5年ぶり。鳴門はかつて「野球王国」の名をほしいままにしていた四国勢にとって、暗闇に一筋の光を灯してくれた救世主的存在となったのである。
しかし、多くの選手が昨夏の甲子園を経験している健大高崎の壁は厚かった。「健大高崎の足は警戒していたが、予想以上に速かった」(森脇稔監督)、「相手の足を気にしすぎてカーブが投げづらかった」(先発の小林直人・3年)、「厳しいボールを投げても当ててくる。こんな打線に当たったのははじめて。びっくりした」(日下大輝捕手・2年)。試合後の弁が全てを物語る。
加えて公立校で唯一のベスト8という責任感も彼らにはマイナスに働いた。「チーム全体でやらなくてはいかん気持ちで臨んだ」(島田寿希斗中堅手)意気込みは気負いに変り、作新学院戦のようなのびのびとしたプレーは陰を潜めることに。7回表・頼みの後藤田崇作(3年)が「まっすぐで攻めすぎて」5点を失ったとき、夢のベスト4は夢のままで終わった。
その一方で、彼らは多くの収穫も四国に持ち帰ることになった。普段から分析力に優れ、9回裏には代打で見事に三遊間を破った丸宮太雅(捕手・3年)はベンチから見て「夏への課題が見つかった」と話す。
「一言で言えば連携です。ベンチから見ていても健大高崎は走塁と打者との連携がしっかりできていました。ウチは低めのボールの見極めとか、そこからやっていきたいです」。
また、一年夏の甲子園ではスタメンで興南(沖縄)のパワーを肌で体感した杉本京太主将(3年)は「精度」が今後の課題と話す。
「健大高崎は身体能力が高い選手が多かったし、甲子園ではボールの切れや守備の部分で今まで見たことのないプレーがいっぱいあった。それに対抗できるようにまずは下半身をしっかり鍛えて、思い切りのよい鳴門らしい野球は続ける中で、精度を上げていい投手からも打てるようにしたいです」
それも未踏の地に立ったからこそ分かったことである。
もちろん、鳴門の杉本京太主将をはじめとする選手たち、ご父兄、スタッフ、関係者の皆様、そして鳴門高校野球部にかかわる全ての皆様には、まずは全国ベスト8という偉業に心からお祝いを申し上げたい。そして、この敗戦でその価値が下がるものではいささかもない。
が同時に鳴門には全国ベスト8の光景を目に焼き付けて壁を破り、さらなる高みを不断の努力で目指す使命が加わったことも確か。今後、それさえ忘れなければ「夏に甲子園に戻る」彼らの誓いはきっと達成できるはず。そしてその先には、野球王国復活への救世主でなく、新・野球王国構築への「先駆者」の称号が待っているはずだ。
(文=寺下友徳)