中日ドラ4の147キロ左腕の福島章太(倉敷工)の覚醒の始まりは「肘の手術」から【前編】
コロナ禍により、例年とは違う日常を送った2020年もまもなく終わりを迎える。プロ野球も観客動員数に制限をかけながらシーズンを過ごしたが、今秋のドラフトも例年とは違う形で開催された。
そこで中日から4位指名を受けた選手が今回紹介する倉敷工・福島 章太である。176センチ89キロの大きな体を目一杯使ったフォームからは147キロの速球に多彩な変化球が繰り出される。中日の将来を背負う左腕にここまでの道のりを語っていただいた。
142キロを計測する剛腕として倉敷工へ
中日から4位指名を受けた倉敷工・福島章太
6歳のころから野球を始めた福島。球界を代表する投手・山本 由伸(都城出身)も卒業生にいる備前中学へ進学すると、部活動ではなくクラブチームの瀬戸内ボーイズへの入団を決意する。現在プロで活躍する頓宮 裕真(岡山理大附出身)らを輩出する名門で、野手としてプレーする。
その後、いくつかのチームから誘いをもらいながらも「投手として育てたい」という高田 康隆監督の猛烈なアピールを受けて福島は倉敷工への進学を決めた。
「中学でも投手は少しやっていましたが、やはり野手よりも楽しかったので、高校では投手一本で考えていました。ですので、監督からのお誘いは決め手になりました」
晴れて倉敷工の一員となると、最速142キロを計測する実力を評価され、入学して1か月もすると、福島はAチームへ帯同するようになる。本人も驚きの数字を出したことで経験を多く積むことが出来た一方で、福島の中では勘違いが生まれてしまったとのことだ。
「上半身主導のフォームが染み込んでいたのですが、スピードが出たことで、より速いボールを投げようと速度ばかりを追い求めてしまいました。その結果、上半身に負担をかけたフォームのまま投げ続けてしまいました」
先輩についていく形で、ひたすら走り込みをやっていたものの、上半身の力に頼ったピッチングをしていた福島。それでも1年生の秋にはエースナンバーを背負い、先輩や指導者からも信頼される投手に成長する。
ただ大会は2回戦・玉野光南の前に敗戦。結果を残せないまま冬を迎え、トレーニングに打ち込む日々。この時も上半身を中心としたメニューを組み、下半身を疎かにしてしまったという福島。すると、転機は2度目の春に訪れた。
骨折を経て気づかされた下半身の大切さ
中日から4位指名を受けた倉敷工・福島章太
2年生となった福島はこの時に左ひじを疲労骨折する。これまで上半身主導で投げ続けてきたことが怪我に繋がってしまった。ここで初めて「投げるのは上半身だけではない」と言うことを実感したという。
それからはリハビリの日々。回復を待ちながら下半身を重点的に強化。体幹トレーニングにも力を入れるなど、これまではランニング重視だったが、質にこだわるようになってきた。
「冬場にも下半身をやっていましたけど、筋力のバランスを見たら全然足りていませんでした。その時は上半身をとにかく鍛えれば150キロに届くと思っていたので反省しています」
その後、2度目の夏は背番号13でベンチ入りするが、チームは準々決勝で岡山学芸館の前に敗戦。ここから「学芸館を倒して甲子園に行く」ことを目標に定め、福島は新チームをスタートさせる。
そして秋は再びエースに返り咲き、春の選抜を目指す秋季大会に出場。2回戦を打ち合いの末に勝利すると、準々決勝で創志学園と対戦。県内の強豪との対戦となったが、結果は2対4とベスト4進出とはならなかった。
甲子園出場へのチャンスは残り1回。福島にとっての最後のチャンスとなる冬の練習だったが、ここで福島は春に痛めた左肘の手術をすることを決意。クリーニング手術で自分の骨を移植するというもので、家族からは心配されたとのこと。
しかし、「怪我をする前より強くなって戻ってくる」という強い想いを持ち、家族から了承をもらい、無事に手術は成功。再びリハビリ生活に入る。
「前から監督から『苦しいことを乗り越えないと、楽しいことばかりでは幸せは訪れない』という言葉をかけられていました。自分はプロ野球選手になるという強い夢があったので、そのためにもリハビリから部屋に戻ったら左投手のトレーニングやストレッチの動画を見ていました」
リハビリ生活をプラスに変えようとしてきた福島。2月ごろにはボールを投げられるようになり、3月には50メートルほどの距離まで投げられるようになるなど、順調に回復してきた。だが、新型コロナウイルスの感染拡大で春の大会は中止。練習も自粛を余儀なくされ、自宅への帰宅も決まり、5月20日は甲子園中止が決まってしまった。
前編はここまで。後編では最後の夏について、そしてプロでのビジョンについて聞きました。
(記事=田中 裕毅)