無理は禁物だが、連投できることもその投手の強みになる 槙原寛己氏【後編】
現在、大好評配信中のAmazonプライムビデオ「プロ野球そこそこ昔ばなし」は、芸人ナイツと吉田明世アナウンサー、野球解説者の金村義明氏を中心に毎回、プロ野球OBのゲストを迎え、当事者たちしか分からない当時の裏話を笑いとともに語り合う内容になっている。気になる話は本編を見ていただければと思うが、そこに第10話と第11話のゲストとして出演した槙原寛己氏が今回のお相手だ。
1981(昭和56)年のドラフトで大府高校在籍時代に巨人から1位指名で入団した槙原投手。その後プロ野球では完全試合なども達成し、通算159勝を記録している。前編では大府高校進学のきっかけから入学当初。中編は2度の甲子園でのエピソードを中心に語ってもらった。後編ではプロ入りまでのエピソードや、球数制限に関する意見を語っていただいた。
前編はこちらから!
入学当時は甲子園出場は厳しいだろうと思っていた 槙原寛己氏【前編】
中編はこちらから!
全国のレベルを痛感しつつ、自信も深めた2年時の甲子園出場 槙原寛己氏【中編】
巨人とは相思相愛でプロ入り
槙原寛己氏
報徳学園に5対3と快勝した大府は、5日後の雨の中の2回戦で御坊商工にわずか4安打しか奪えず0対4と敗退する。グラウンド状況も悪かった上に、チームとしても報徳学園に勝ったということもあって、「次の上宮のことばかり考えていました。正直、ちょっと相手を軽く見ていたところはありました」と、槙原投手自身も反省する内容だった。まさに、足元をすくわれたという形で敗退してしまった。
それでも、すぐに帰って夏へ備えていったのだったが、その年の夏は工藤公康投手(西武→ダイエーなど。現ソフトバンク監督)を擁する名古屋電気が躍進して愛知大会を制する。大府は準々決勝で敗退して3季連続の甲子園出場はならなかった。
―― 夏の大会が終わって、その時の意識として進路はどう思っていらっしゃったのですか。
センバツに出たことで、多くの人からも(プロに)行けるんじゃないか。というようなことは言われていましたし、自分でも意識はしていました。また、ある程度はやれるんじゃないかなという気持ちにはなっていました。
―― 今のように、プロ志望届というような手続きなどまだない時代でしたが、意識としてはプロ志望ということになっていたということですか。
何球団かは学校に挨拶にも来てくれていましたし、具体的に1位で行くぞと言ってくださったところもありました。自分でも、甲子園である程度は投げられたことでプロへの自信というか、確認は出来ていました。
―― 愛知県で高校球児としてやっていらっしゃった槙原さんですが、当時好きな球団というか、ファンとしてはどこが好きだったんですか。
あ、ボクは、巨人でしたね。
―― ということは、巨人の1位指名というのはまさに願ったり叶ったりというところだったわけですね。
そうですね。当時は、今みたいに(ドラフトの)テレビ中継もありませんし、午前中から(ドラフト会議を)やっていたと思うんですけれども、3時間目が終わった時だったかなぁ、トイレへ行こうとしたら女の先生から『槙原君、巨人に決まったよ』と教えてくれて、それでこんな早い時間だったら1位指名かもしれないと思って、それからは何も手がつかない状態でしたね。
4時間目はまったく覚えていません。それで、確か午後からはマスコミ対応に備えなくてはいけないということで5時間目と6時間目は出なくていいから待機ということになりました。
[page_break:連投できることは投手の強みになり得る]連投できることは投手の強みになり得る
「プロ野球そこそこ昔ばなし」の収録に臨む、槙原寛己氏
すんなり巨人入りした槙原投手は2年目から一軍のマウンドを経験。1983年4月16日の阪神戦で初登板初完封で勝利を挙げ、この年12勝9敗1セーブで新人王を獲得。
89年には防御率1・79を記録。91年は開幕投手も務め、94年5月18日の対広島戦では完全試合を達成。球史に名を残した。プロ野球では実働19年で463試合に登板して通算159勝128敗56セーブという記録を残している。
そんな槙原投手に、最後に、現在問題になってきている高校野球の球数問題についての考えも述べてもらった。
「ボク自身も、センバツ前にちょっと肩を痛めたかなと思ったことはありましたが、それがその後の投手生命に影響したということはなかったです。それに、高校では、全部僕が投げていましたから。自分が投げなかったら勝てないと思っていました。ある程度は連投が効く、連投が出来ることもその投手の持ち味でもあり大事だと思います。
いろいろ規制をしてしまうと、それを緩めていくことは難しくなっていくので、徐々に規制をしていくということでしょうか。
ボクとしては個人的には、肩の故障ということで言えばプロ生活の最後頃の2000年かなぁ。日本シリーズに間に合わせなくてはと思って、無理したところがあって、それで投手生命を縮めたとは思っています。あの時、日本シリーズで無理しなかったら、あと2~3年は長くやれていたかもしれません。」
(取材=手束 仁)
関連記事
◆連載「甲子園のヒーローに会いに行く」バックナンバー
◆前編を読む⇒入学当時は甲子園出場は厳しいだろうと思っていた 槙原寛己氏
◆中編を読む⇒全国のレベルを痛感しつつ、自信も深めた2年時の甲子園出場 槙原寛己氏