早稲田実業の系譜 ~歴史を背負い、伝説となった早実戦士たち~【後編】
前編では、王 貞治投手擁して悲願の初優勝の年や、荒木 大輔投手フィーバーの時代をたどってきました。後編では、その後の早稲田実の系譜を探ります。
和田監督の急死に学校移転などで混迷期を迎える
和泉 実監督
荒木 大輔たちが抜けて騒動も治まり静かになると、早実も甲子園から少し遠ざかっていくようになった。そんな折に和田監督が急死。早実に暗雲が立ち込めた。
後任は早大を出て、山口の南陽工で指導をしていた和泉 実が急遽呼ばれて、戸惑いの中で就任することとなった。早々の結果を求められたが、1996(平成8)年夏に、8年ぶりの甲子園出場を果たして一息つく。初戦で近江に勝って、14年ぶりの甲子園勝利となった。しかし、2回戦では海星に逆転サヨナラ本塁打で敗退。
それからまた、10年間甲子園から遠ざかることになった。
東京大会でもなかなか勝てない時期もあった。道正 俊明(早大-西多摩倶楽部)を擁してベスト8に進んだ97年秋、その道正が3年生となった夏は東東京大会ベスト4に進出して、久しぶりの甲子園が見えかかった。ところが、準決勝では勢いに乗っていた都立城東に粉砕された。初回二塁打で出た走者が、三塁まで進んだところで都立城東の福永 泰也捕手(東京学芸大-独立リーグ)の牽制で刺されたのがすべてだった。その裏、勢いづいていた都立城東打線にいきなり4点を奪われる。抑えとして用意していた道正も思わぬ早い段階で送り込むことになった。6回には道正自身の3ランで一旦6対6と同点にしたのだが、7回に都立城東に本塁打などが出て2点を追加され、反撃も1点止まりで及ばなかった。
そして学校の国分寺への移転に伴い、01年からは西東京で参加することになった。
移転したものの、住宅地に隣接しているということもあって、グラウンドは硬式野球は使用不可となった。いくらか思惑違いもあったということかもしれないが、こうしてグラウンドのない早実はグラウンドを求めるジプシー野球部となった。早実としては、もっとも苦しい時代を迎えることとなった。
また、学校そのものも男子校から共学校へと移行し、スタンドにはチアガールも踊るようになって、華やかにはなったものの早実の伝統というか、武骨な“早稲田らしさ”は姿を消していった。
女子に門戸を広げたことで、野球ということだけで言えば、入学はさらに狭き門ということになっていった。こうして、早実の苦悩は続いたのだが、03年に京王電鉄相模原線の南大沢駅から町田方向へ歩いて約15分の地に、新グラウンドが完成することとなった。グラウンドは“[stadium]王貞治記念グラウンド[/stadium]”と命名された。
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斎藤 佑樹がハンカチで汗を拭きながら初の深紅の大旗を掴む
斎藤 佑樹選手
学校から多少距離はあるものの、早実に待望の専用グラウンドが出来た時に入学してきたのが、その後に甲子園で大フィーバーを巻き起こすことになる斎藤 佑樹たちだった。群馬県の太田市出身の斎藤は、早稲田大で野球をやりたいという思いを強く持って、地元校ではなく、あえて早稲田大系属校の早実を選んだのだ。
斎藤は06年夏、甲子園のヒーローとなっていき、ハンカチで汗を拭う仕草がクローズアップされて、“ハンカチ王子”などと称せられて、メディアにはその後の“王子ブーム”までもたらすことになる。その夏の甲子園に至るまでの斎藤は、爽やかな王子というよりも、クレバーだけれども少し負けん気の強いしたたかな投手という印象だった。
事実、西東京大会の決勝では、初回に日大三の打者に死球を当てても、動揺するどころか帽子もとらないで、「えっ!避けられないの?」というような表情で、転がったボールを自ら拾いに行っている。そして、その後も強気で打者の内側を攻め続けていた。こうして、日大三の強打を封じて甲子園出場を勝ち取ったのだ。
18年ぶりとなった春に続いての甲子園出場となったが、夏は10年ぶりである。
春は2回戦で岡山関西に7対4とリードして迎えた9回に3点を追いつかれて延長となり、結局延長15回で引き分けとなる。驚くのは、15回の投球で疲れも見せず3者三振で抑えるところに、斎藤の気の強さが垣間見える。翌日の再試合で4対3と競り勝ってベスト8に進出を果たすが、横浜には3対13で敗れている。
春以上の成績を残したい早実は、夏2回戦で大阪桐蔭と対戦するが、斎藤は2年生ながら注目のスラッガー中田 翔(日本ハム)に対して、内側を攻め切って3三振を奪う。そして、この頃から徐々に斎藤の人気が上がっていき、勝つとともに“ハンカチ王子”が大きく取り上げられるようになっていった。
決勝は3連覇を狙う駒大苫小牧との対決。田中 将大(楽天-ヤンキース)(2013年インタビュー)との投げ合いとなったが1対1のまま引き分け。斎藤と早実は春も夏も延長15回引き分け再試合を経験することとなった。そして、今更語るまでもなく、斎藤が翌日再試合を制して、早実は初めて夏を制する。
「88年待ちました。ありがとうございます」
優勝インタビューでマイクを向けられた和泉監督が、最初に叫んだ。
2007年。その斎藤の投球に憧れ、背中を追いかけ、入学したのが鈴木 健介だった。兄は慶應義塾だったが、“WASEDA”のユニフォームで甲子園を目指したいと思った。鈴木は3年の夏にその思いを果たすことになる。2回戦では連覇を狙う中京大中京戦に、21対6と驚異的なスコアで大勝したが、東京勢対決となった3回戦で関東一に屈した。以来、夏は甲子園に届いていない。
そしてこの4月、またまたメディアを賑わす逸材が入学してきた早実である。これからの2年半、東京都の話題を独占していくのだろうか…。
(文:手束 仁)
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