【目次】
1 どう自分を変えていけばいいのか、分からなかった3年間
2 「俺はマウンドに上がった時の気持ちは、お前には負けない」
3 1人で閉じこもるだけでなく、周りのメンバーと関わり合う
4 キャッチャーとの会話を大事に

どう自分を変えていけばいいのか、分からなかった3年間

"どう変わっていけばいいのか、分からなかった"

 09年に社会人野球の名門・日産自動車(神奈川)が休部。翌年、石田祐介は住友金属鹿島(茨城)に移籍すると、すぐにチームの大黒柱に。2年ぶりの出場を決めた昨夏の都市対抗大会では、4強入りに貢献。

 今ではチームメイトから厚い信頼を寄せられている石田も、東京国際大を卒業して、日産自動車に入社してからの4年間は、全く芽が出なかった。それでも、当時の久保監督は、石田を見離さなかった。

石田選手(以下「石」) 日産に入社してみたら、周りは野球のエリートばかり。自分の大学名を聞かれても、「どこそれ?」って言われて、こんな凄い選手たちの中に自分がいていいのかな?って、自信をなくしました。練習についていくのもやっと。寮生活も初めてで、それもきつかった。正直やめたいって思っていました。監督、コーチ、先輩からも毎日、ボロカスに言われてましたね。

――厳しい環境であっても、野球を辞めなかったのですね。監督もまた、石田投手の成長を待っていてくれたのですね。

「石」 なぜ切られなかったのか。今、思うと不思議ですよ。僕は、ずっと先輩の投手についていけばいいやって過ごしてきたけど、自分が引っ張っていくんだっていう考えは全くなかったんです。

 入社3年目の時に同期の秋葉が先に活躍して投げるようになって、うらやましいっていう気持ちと、悔しいなっていう気持ちがあったけど、だからといって自分はどうすればいいのか。どう変わっていけばいいのか、分からなかった。

――苦しい時期が続いていたのですね。何か、そこから抜け出すための“きっかけ”はあったのでしょうか。

「石」 転機は、入社4年目です。この年、入社して初めて、都市対抗と日本選手権の予選から本戦まで、1イニングも投げさせてもらえなかったんです。

 これまでは、企業チームとの試合で投げたことはなかったけど、クラブチームとの試合であれば登板させてもらっていました。ケガもしてないし、調子も悪くなかったのに投げさせてもらえなかった。だから、もうその時点で、腐っていましたね。正直、自分から野球を辞めてやろうって気持ちになっていました。

 そんな時、7月の都市対抗予選が終わると、チームに都市対抗の補強選手がきたんです。東芝の中野さんと、三菱重工横浜の門西さんでした。監督からは、『お前と同じタイプの中野投手を取ったのは、お前と競争させるためだ』と言われました。ピッチングコーチは、門西さんに『石田を何とかしてくれ』と話していたらしく、1カ月間、僕はずっと門西さんと付きっきりで一緒に練習をやっていました

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