独占インタビュー 第46回  【特別企画】 高校スポーツのあした(1) 2010年05月23日


 【高校野球情報.com】【特別企画】 高校スポーツのあした

競技を通した人格形成、簡単にいえば、スポーツを通した人づくり。これが大切だと訴える人が多くなったように思うし、時代もそれを求めている気がしてならない。

1月29日、高校球界ではセンバツの出場校が発表されたこの日、スポーツを通した人づくりに励まれる東北の3人の「監督」にお集まりいただいた。
女子バレーボールの国分秀男先生(元古川学園高監督)、男子バスケットボールの佐藤久夫先生(元仙台高ヘッドコーチ、現明成高ヘッドコーチ)、野球の佐々木洋先生(花巻東高)。
競技の違いから始まり、様々な相違点がある先生方だ。バレーボール、バスケットボール、野球。時間制、得点制、イニング制。攻守の入れ替わり。屋内競技、屋外競技。女子指導、男子指導。私立、公立・私立。60代、30代。宮城、岩手。勇退監督、現役監督。全国優勝、全国準優勝。

競技や環境が全く違う3人の「監督」が高校生の部活動指導について約2時間半語り合った。指導者になろうと思ったきっかけ、部員全員に目を配る工夫、1~3年生まで各学年をどう見るか、選手の人間性と実力の相関性について、最後の大会でベンチを外れた3年生について、キャプテン・マネージャーの存在や理想、部での禁止事項とその意図、東北人としてのメリット、デメリット、学校生活、寮生活など。

全国優勝をしたから、全国優勝を目指しているから、すごいのではない。日本一を目指す中で生徒たちの高校卒業後の未来を案じている。高校を卒業してから始まる、「人生」の軸づくり。それを、限られた高校生活で、その競技の頂を目指す中で取り組まれている。

 全ての競技の全てのチームが全国優勝を目指しているわけじゃない。県大会でベスト16やベスト8、ベスト4を目指すチーム、甲子園やインターハイ出場を目指すチーム、甲子園やインターハイで優勝を目指すチーム。いろんなチームがあっていい。目標に向かう過程。そこにある一日、一日が大切だと思うんだ。

【全8回連載特別企画】


1.指導者を志したきっかけ

【高校野球情報.com】【特別企画】 高校スポーツのあした

【国分先生】

国分先生(以下「国分」) 今日はよろしくお願いします。まずは時の人からいきましょう。佐々木洋先生、先生が野球の指導をしてみようと思ったきっかけは何だったのですか?

佐々木先生(以下「佐々木」) 私は中学校時代に悪い生徒のリーダーだったのですが、ある一人の先生に生徒会長に導かれて、私の人生が変わっていったということがあってですね、教員の影響力というか、出会いで人生が変わるんだということを大切に思った時期がありました。その先生から「教員に向いている」ということは中学校の時から言われていてですね。

「国分」 中学校の時から言われていたの?

「佐々木」  はい。当たっていたかどうかはわからないです。うまく持っていくためにそんな話しをしたと思うんですけど。そんなことが頭の中に残っていてですね。もちろん、社会人からプロに行きたい気持ちで大学に行ったんですけど、途中、自分自身も手を抜くことばかり考えていてですね。結局、夢破れてしまって。次は指導者としてという感じで、神奈川で修行して岩手に帰ってこようということ。神奈川に残って、勉強してからこっち(岩手)に帰ってきました。

「国分」 なるほどね。(佐藤)久夫先生、この間のウインターカップでは、見事な優勝でしたね。今、バスケット界で外国人選手がいないと勝てないような雰囲気と言ったら大変失礼ですけど、外国人選手を擁しているチームが優勝しているという時代で、日本人だけですごい試合をするもんだなと思っています。同じ、宮城県人としてすごい誇りに思っています。そもそも、先生がバスケットの指導者になろうと思ったきっかけは何だったんですか?

  

「佐藤先生」(以下「佐藤」) 佐々木先生が言われたようなこととだいたいね、変わりはないですね。ただ、小さいときからバスケットにのめり込んでしまって。最初は選手としてね。日の丸を付けたいなっていう、誰もが思うような、そういうことからスタートして、それで東京行ったら日本は狭いようで本当、広いんですよね。俺は一番だと思っていたら、一番はたくさんいた。そういう中でもバスケットボールから離れられないと。それで、(佐々木監督と)同じようにやはり、(指導者というのは)自分のサブタイトルだったんですよ、最初はね。選手でなんとかしたいというのが、行ってみたらとんでもないと。それで、サブタイトルはバスケットの指導者というね、教員の道ということを模索していたんですね。

「国分」 先生、小さい時というのはいつ?

「佐藤」 私は、中学校1年生からバスケットを始めました。始めたきっかけというのは、小学校の時にポートボールという教材があるんですけど、そのポートボールで、野球なんかは片手でボールを扱うでしょ。私も小さい頃は野球やっていました。両手でボールを扱うんですよ、ポートボールというのは。

「国分」 はい、はい、はい。

「佐藤」 それに新鮮な感覚っちゅうかね、感じを持って。それでポートボールを真剣にやっていたら、たまたま先生がね、パスが上手だと。算数とか国語とかじゃ、1回も褒めてもらってないのに、そういうことで1度褒めてもらって、なんかそれがずーっと残っていてね。中学校でもボールを両手で扱う、バレーも確かに両手で扱うんだけど、バスケットの方に目がいってしまったと。

「国分」 そうすると、佐々木先生も久夫先生も、要するに恩師、先生の一言によって。

「佐藤」 そうですね。国分先生が指導者を目指したのは?

「国分」 私の場合ね、東京オリンピックで日本がね、私は、日本は最後は勝てないだろうと思っていたんですけど、それが圧倒的に優勝するのを見てからね。

「佐藤」 東洋の魔女ね。

「国分」 東洋の魔女でね。いや、世間は東洋の魔女はすごい、すごいっていうけれども、私はあんなでっかい国でね、ソ連という大きな国から選ばれた12人と、こんなちっちゃな国から選ばれた12人がね、戦って、しかも6人制バレーの歴史は、はるかにソ連の方が長いんですよね。

「佐藤」 うん、うん。

「国分」 世間がいうほど、甘くないぞと。最後はソ連が勝つだろうと思っていたけど、日本が優勝してね、私の場合はそれがきっかけなんですけど。

このページのトップへ