吉田正尚の後輩に141キロのスーパー中学生 怪我の功名で急成長
オリックス・バファローズの吉田 正尚外野手(敦賀気比出身)や広島東洋カープの東出 輝裕コーチなど、これまで多くのプロ野球選手を輩出している名門中学野球チームが、福井県鯖江市で活動している鯖江ボーイズだ。
2015年には日本少年野球選手権大会で見事優勝を果たし、「本気、全力、自立、公的」のチームポリシーの下、月曜日を除く週6日間の活動を行っている。
そんな鯖江ボーイズに、中学野球屈指のサウスポーが現われた。
「ネクスト吉田正尚」として大きな期待
古谷 龍斗(鯖江ボーイズ)
チームは長年、鯖江市の[stadium]西山公園グラウンド[/stadium]を本拠地としており、歩いて5分ほどの距離には室内練習場も完備。チームを率いる佐々木 昭弘監督曰く、室内練習場は選手にとって遊び場。休日である月曜日も、選手たちは室内練習場に集まって練習を行うため、佐々木監督も休む暇が無いと思わず苦笑いを浮かべる。
そんな鯖江ボーイズに、佐々木監督も「見てきた中でナンバーワン」と口にする快速サウスポーが現われた。それが古谷 龍斗投手だ。
177センチ・76キロ、鋭い腕の振りから投げ込まれる速球は最速141キロを計測し、この夏は日本少年野球選手権大会にも出場。ブレーキの利いた曲がりの大きなカーブとのコンビネーションも光り、佐々木監督は「ネクスト吉田 正尚」として大きな期待を寄せる。
「入団した当初から体も大きく、キャッチボールを見ていいもの持ってるなと思いました。体の線が細かったので、体づくりからじっくりと取り組みましたが、140キロが出たのは育てた中でも初めてですね。将来はプロ野球選手になって、吉田 正尚のように侍ジャパンに入れるような選手になってほしいです」
小学校2年生からソフトボールを始めた古谷投手は、4年生の終わりからは少年野球チームの木田ネイビーブルーズに入団。投手として活躍を見せると、中学野球では「高いレベルの中でやりたい」と名門・鯖江ボーイズの門を叩く。
入団後は、体作りをメインに練習に打ち込んだが、それでもいざ試合でマウンドに上がると頭一つ抜けた潜在能力を見せる。入団当初から120キロ近い直球を投げ込み、1年生の秋には130キロを計測した。
古谷投手自身も、この頃から自身の投球に自信を持つようになったと振り返る。
「1年の11月頃に130キロが出て、その頃からストレートに手応えを掴むようになりました。当時はまだ体も細かったので、もっと力をつけてレベルの高い投手になろうと思いました」
[page_break:腰痛を乗り越え141キロに到達]腰痛を乗り越え141キロに到達
古谷 龍斗(鯖江ボーイズ)
右肩上がりに成長を続けた古谷投手だが、以降は思わぬ痛みに悩まされる。
腰椎分離症を発症し、練習が全くできない状態になったのだ。
成長期特有の痛みに、思わず「苦しかったです」と胸の内を明かす古谷投手。
だが佐々木監督は腰椎分離症をプラスに捉えて、しばらくは体作りに専念することを提案した。その提案を受け入れ、体に負担をかけずに体作りを行ったことが後の飛躍に繋がっていったのだ。
「練習がはできませんでしたが、一日五食とご飯いっぱい食べることはできました。また小学校5年生から柔軟もずっと続けており、ゆっくりと体を作ることができたのは良かったと思っています」
また腰痛の再発防止のため、フォーム修正に取り組んだこともプラスに働いた。
2年生になると少しずつ練習を開始し、ピッチング練習も再開したが、腰に負担のかかる投球フォームであることを悟り、シャドーピッチングの時間を増やして修正に取り組んだ。
「元々、投げる際に少し後ろに反る癖がありました。上体が流れてしまい、力が伝わらないフォームで腰に負担もかかる。もっとタメを意識して、効率の良いフォームにしようと取り組みました」
怪我の功名。3年生になる頃には体重は70キロを超えて、球速は135キロに到達。6月には[stadium]福井県営球場[/stadium]で141キロを計測し、北陸屈指の左腕としてその名を一気に全国へ知らしめた。
初の全国の舞台となった8月の日本少年野球選手権大会では、初戦で惜しくも大田水門ボーイズに1対2で敗れたが、古谷投手は高校野球では甲子園の舞台で勝ち進みたいと強い思いを口にする。
「全国大会では、マウンドが固くて調整できなかったり、自分自身の経験不足を痛感しました。ストレートも変化球ももっと質を高めて、高校野球では1年生からベンチ入りして、甲子園でも勝ちたいと思います。そして最終的には、プロの舞台で活躍できるように頑張りたいと思います」
これまで鯖江ボーイズは輩出したプロ野球選手は計10名。古谷投手の活躍にも期待だ。
(記事:栗崎 祐太朗)