目次

[1]野球後進県からの進歩
[2]酒田南と羽黒の覇権争い

[3]新勢力の登場による混戦模様

野球後進県からの進歩


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 東海大山形が2度目の甲子園出場を果たした1985(昭和60)年の夏、優勝候補のPL学園に7対29という記録的なスコアで敗退したということがあった。このことは県議会でも取り上げられて全国に報じられた。隣接する新潟県に並んで、かつて高校野球の全国大会でのワースト記録を争っていたのが山形県である。県議会で「県内の高校野球を強くするにはどうしたらいいか」ということが大事な議題になったということである。
 この件だけでも、山形県が野球後進県といわれても誰も文句が言えなかったという現実ともいえる。

 それでも、東海大山形は翌年も春夏甲子園に出場し、夏は京都商(現京都先端科学大附)に負けたとはいえ0対1というスコアで健闘。さらに翌年は待望の初勝利を挙げ、2回戦も勝って汚名を返上した。県議会の成果も何らかの形であったということがいえそうだ。それから、30年の歳月の間に山形県の高校野球は格段の進歩を遂げている。
 歴史的には、その当事者となった東海大山形に対して、県内の対抗としては老舗の日大山形が存在していた。元々は、山形県の高校野球の先駆的な立場としては戦前の山形中(現山形東)を除くと日大山形が筆頭格である。甲子園の歴史ということでいえば、日本復帰以前の沖縄代表の首里に初勝利を献上したことでも話題になった。ちなみに、この時点で山形県勢は甲子園では未勝利だった。だから、実は未勝利県同士の戦いというわけだ。

 結局、山形県勢の甲子園初勝利はさらに遅れたが、実現したのは日大山形だった。その10年後の春で、熊谷 篤彦投手の踏ん張りで鳥取県のを下した。その年は夏にも甲子園初勝利を果たす。こうして山形県というと日大山形という時代が続いていく。そして、それに対抗してきたのが、比較的県外の選手を早くから集めて強化していた鶴商学園(現鶴岡東)で、東海大山形と3勢力で争うという形だった。