忘れることはない甲子園での2度の敗戦。近田怜王(報徳学園出身)のプレッシャーとの戦い vol.2
兵庫が誇る全国区の名門校・報徳学園。「逆転の報徳」の異名で高校野球ファンに親しまれ、広島の若手注目株・小園海斗や岸田行倫といった現役選手、引退された選手まで見ていくと金村義明氏や清水直行氏など多くのスター選手を輩出した。その中の1人が福岡ソフトバンク、JR西日本でプレーをされた近田怜王さんだ。
高校時代は最速145キロを投げ込む本格派左腕として世代を代表する投手として、2008年の夏の甲子園でベスト8進出に大きく貢献。プロからも高い注目を浴びてきた近田さんだが、今回のvol.2では高校時代の苦悩に迫っていく。
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最速137キロを計測するスーパー中学生だった近田怜王さん(報徳学園出身)の野球人生の始まり vol.1
プレッシャーと戦った1年生の春
近田怜王さん
中学時代に大きな実績を残した近田さん。ここから遂に高校野球の世界へ飛び込んでいくこととなるが、三田シニア入団当初の目標であった横浜から、なぜ報徳学園へ進学を決めたのか。それも兄の存在が関係していた。
「長男が報徳学園の野球部でやっていましたが、レギュラーにはなれなかったんです。それがあって『兄と同じ高校のユニフォームを着て、甲子園でやりたいと思ったんです』
近田さんは、兄の想いを背負って憧れの横浜から地元の名門・報徳学園への道を歩むことを決意。中学時代の全国ベスト4の実績は既に知られており、高い注目を浴びる中で報徳学園の門をたたいた近田さんの前に待っていたのは過酷なものだった。
なかでも中学時代から苦手にしてきたランニングがかなりのモノだった。
「走るのがメインのチームでしたので、入学当初はついていくので必死でしんどかったです。グラウンドの横に200メートルくらいのトラックがあるので、10周を時間測って走ったり、30秒で200メートルを走ったり。時間制限を守らないと本数に数えてもらえないので、同級生には背中を押してもらうこともありました」
それでもピッチャーとしての高い能力が認められ1年生の春から背番号をもらい、ベンチ入り。そのタイミングで公式戦デビューを飾るなど、即戦力として高い期待が寄せられていたことがわかる。
1年生春から公式戦出場となれば、注目度はさらに増すが、試合に出ていた近田さんが感じていたことは“怖い”の2文字だった。
「3年生が凄すぎて近づけず、会話もあまりできない中でベンチに入るのも怖かったです。試合でも先輩がマスク被って、連携もまだできていないなかでの登板で怖かったです」
背番号をもらうことにも「自分がもらっていいのか。そのレベルなのか」と不安を抱えながらも近田さんはベンチに入ってチームに貢献。その時、近畿大会まで勝ち進むことが出来たものの、1回戦・日高戦は近田さんのエラーをきっかけに6対7で敗戦した。
近田怜王の名前も知られたなかで結果を残せず、3年生にとって残り少ない大事な大会を自分のミスで負けてしまった。1年生ながら葛藤と責任を抱えながら、夏に向けて鍛錬を重ねていった。
ただ、1年生の夏は肩の怪我の影響でベンチから外れ、ボールボーイとしてチームのサポートへ。この期間にけがをした肩のケアはもちろん、体力づくりなどの基礎トレーニングなど不足していた部分を補う期間に充てた。
苦い経験が残る2度の甲子園
報徳学園時代の近田怜王さん
その後、エースとしてチームを牽引するようになった近田さんは神宮大会で準優勝を経て、2年生の春に初めて甲子園に足を踏み入れることとなった。聖地・甲子園のマウンドに立ったときの印象を、近田さんはこう振り返る。
「まずはホームベースが近いと感じました。普段の大会で投げている以上に近くに感じたので不思議と、『打たれないな。いけるな』と思ったんです。秋に結果を残して自信があったのもあると思いますが、あまり緊張しませんでした」
迎えた室戸との初戦は投手戦の様相となり近田さんも9回完投するも、結果は1対2で敗戦。初めての甲子園は苦々しい結果に終わっている。その一方で、大事な場面でタイムリーを許すなど、詰めの甘さ。自分の弱さが出てしまった大会と反省し、その年の夏の甲子園に報徳学園は再び戻ってきた。
エースだった近田さんも「春の負けは自分の責任だから、もう一度先輩たちを夏の甲子園に」という責任と自覚をもって予選を勝ち抜いて甲子園へやってきた。しかし、兵庫大会から体調を崩したままプレーし、甲子園でも微熱のままとコンディション不良。
そうした中で迎えた1回戦・青森山田戦。近田さんは7回途中までマウンドで投げ続けたが、熱中症のために途中降板。先輩にマウンドを譲りチームもそのまま敗れた。この試合が3度の甲子園を経験した近田さんにとって忘れられない試合となった。
「万全にしないといけないと思いながら自分の弱さや詰めの甘さが出た夏でした。その時は足をつって屈伸をしている時は『何をしているんだろう』と考えていました。ただ先輩との夏が終わるのは悔しかったですし、申し訳なかったです」
エースとしての責任を強く感じていた近田さん。この悔しさを晴らすべく、高校野球最後の1年をスタートするはずだったが、甲子園が終わってから3日後に倒れて入院。退院後に練習を再開すると、5メートル先に相手の胸に投げるつもりが足元へ。
近田さんはイップスになってしまい、思うようにボールが投げられる状態ではなくなってしまった。この時は「野球できないな」と本人も不安と戦う日々が続くのであった。
(取材=田中裕毅)
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