大阪桐蔭から徳島へ!期待の大型ルーキー・川端晃希が痛感した超名門の厳しさ vol.1
2019年、四国アイランドリーグplusに大型捕手が入ってきた。その選手の名は川端晃希。
大阪桐蔭時代は2年生の時にベンチではあったが2010年の選抜甲子園に出場。同級生には西田直斗(元阪神)、山足達也(オリックス)。先輩には千葉ロッテマリーンズの江村直也、1つ下には阪神タイガースの藤浪晋太郎がいた。
その後同志社大学では日本代表の候補選手に選ばれ、社会人ではJFE東日本でプレーをした川端。今年から四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスに拠点を移し、ラストチャンスをかける川端の野球人生を振り返る。
ソフトボールから始まった川端晃希の野球人生
インタビューに答える川端晃希選手
「オーラがある」
それが川端に感じた第一印象だ。大阪桐蔭、同志社大、JFE東日本とアマチュア野球の名門を第一線でプレーしてきた自信がトレーニングウェア越しからでもわかる。だがいざ話をすると物腰が柔らかい。
そのギャップに少し驚きながら野球を始めた経緯から話を聞いてみた。
「兄がソフトボールをやっていて、その試合を見に行った時にキャッチボールをしたことがきっかけです。」
意外にも小学校を卒業するまではソフトボールをしていた川端選手。野球は中学校から大阪和泉シールズに入団してから本格的に始めた。
ソフトボールから硬式野球に転向した当初はボールの大きさからマウンドの距離。何もかも違うことに苦戦を強いられた。特に困ったのが変化球だった。
「カーブを見た時に全然ボールが来なかったので、尻餅をつくほど強振をしたのを覚えています。」
笑みをこぼしながら当時を振り返ってくれた川端選手だが、このズレを解消するためにも平日はバッティング、土日は守備を中心に週4日の練習に取り組んだ。その練習の成果もあり、3年生の頃には3番打者としてチームを牽引。中学通算は10HRを記録し、一試合に2本ヒット放つのは当たり前だったと語ってくれた。
自慢のバッティングで同じ地域のチームから注目を浴びた川端選手。そのおかげもあって、他のチームの保護者から「大阪桐蔭をみてこい。」と一言を受けて体験会に参加したことがきっかけで大阪桐蔭へ入学した。
[page_break:大阪桐蔭のレベルの高い練習]大阪桐蔭のレベルの高い練習
大阪桐蔭時代の川端晃希選手
「浅村栄斗さんたちが全国優勝してから1年経っていたのですが、その時の優勝メンバーの方もチームにはいたのでレベルの違いを実感しました。」
グランド内の全力疾走や打球の速さ、守備の技術。そして来るところを間違えた、と川端選手の中で錯覚してしまった。そして初めて上には上がいることを実感した。
大阪桐蔭の野球部に入部して3日間は練習を見る。川端選手は3日間練習を見てから「やめていい?」と家に電話をした。それだけの練習だったことがうかがい知れるが、それは練習のレベルの高さだけではない。
「自分は全国にも行ったことが無く、チームの先輩や顔なじみの選手もいなかったので、孤独でした。やっていける自信もなくて不安しかなかったので、自分だけ場違いのような感じでした。」
気後れを感じ、早くも挫折感を味わった川端選手。その時、川端選手を救ったのが親からの「気持ちはわかるけどもうちょっと頑張って。」の一言だった。この一言に川端選手は支えられ、3年間大阪桐蔭でやり切った。
しかし大阪桐蔭の練習は容赦なく川端選手に襲い掛かる。
「4キロくらいのコースで見上げるくらいの角度の山をランニングするのですが、だいたい入学して2か月くらいで1年生は皆10キロぐらい落ちるんです。なので、当時は授業が終わるのが本当に憂鬱でした。
また冬場には朝、グランド10周から練習が始まるんです。その後は近くのお寺までジョギングをしてそこからとても急な階段をダッシュ。さらに坂道も走ったりするのが朝のメニューだった。山の上にグラウンドがあるので、空気もちょっと薄くてみんな唇が紫になっていました。」
この後に朝食だったが、疲れて全然食べられない。そのあとウェイトとバッティングを分かれて行って、夜はポール間のタイム走といったメニューを冬と夏前の追い込みの時だけ実施。今となっては絶対に戻りたくない、と川端選手は話すほどの練習量だ。
vol.1はここまで。次回は名門・大阪桐蔭で川端選手がどんな日々を過ごしたのか。そしてどんな技術を習得したのかについて迫っていきます。vol.2もお楽しみに!
文=編集部