名将・比嘉監督が今のチームに求めるものは自立 沖縄尚学
比嘉 公也監督は、現役時代99年春に沖縄尚学のエースナンバーを背負い沖縄県勢初の優勝を果している。06年に母校沖縄尚学の野球部監督に就任し、08年春には東浜巨をエースに、指導者として再び全国制覇を成し遂げた。沖縄を代表する名将である。
「何かを変えなきゃいけない」から出た答えは自立
指導する比嘉公也監督
秋季大会、沖縄尚学は沖縄水産に準決勝で惜敗している。大会後比嘉監督は「何かを変えなきゃいけない」と考えたという。
その何かが、「自分の中で考える力」だ。
「今年はとにかく自立という部分を、とにかく時間がかかるかもしれませんが生徒に伝えています。」
と語るように、今のチームに求めるのは、監督の指示系統で動くのでなく、自分たちで考え動けるチームだ。
試合中に自分で考え守備位置を変える。
盗塁ができると自分で判断して走れる。
打てない時に自分で考え足で揺さぶれる。
など自分たちで考えて行動できるチームになるために、日常生活や練習からどのようなアプローチをして、夏までにチームを変貌させられるのか、比嘉監督は考えている。
そのアプローチの一つが、「練習メニューを自分たちで考えさせる」ことだ
「自分たちで何が足りないのかというのを考えさせて、また特に何がしたいのか、何が必要なのかというのを考えさせるようにして、二年生中心にメニューを考えさせるようにしています。」
と語るように、練習メニューを考えることで、自分で考える力を養うことを期待している。
そして、「自分たちで考え、自分たちのために時間を使う、という雰囲気は今までより全然いいのではないですかね 。」という言葉からも、比嘉監督が、チームの良い変化を感じているのが伝わる。
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比嘉公也監督
「時間がかかるかもしれませんが、今年はとにかく自立という部分を生徒に伝えています。これって結局自分に返ってくることなんで、時間の使い方、努力の仕方が何か間違っていたら当然伸びないです。いいバッター、いいピッチャーになれない。良くも悪くも全部自分に返ってくることが、今求めていることなんで」
淡々と話してくれたこの言葉だが、非常に重みがある。比嘉監督はチーム内の良い変化を認めつつも、行動の質を更に上げていくことを現チームに求めている。実際に、「行動の質」を上げるための一貫した意見がインタビュー中も多く感じられた。
その1つが、「高い目標設定」をできるようになることだ。いかに、自分の限界のハードルを高くできるのか、素振りの、トレーニングの本数や秒数もやらせたらできる数でなく、自分の限界を超えられる目標設定を求めている。
また、「行動の質」を上げるうえで、自分のレベルを客観的な視点で知ることは大事になる。比嘉監督は、数値として理解できる工夫もしている。
「背筋力を測って、そうしたらやっぱり(ボールを)遠くに飛ばす人は背筋力が強いんだとか、ベースランニングも測る。外野ノックは今立たせている所から5m単位で ラインを引いてやってます。自分は守備範囲が広いと言ってもそれは感覚であるので、目に見える距離感を提示してあげる。周りは25m先を取ってるのに自分は15mしか取ってないとか、言葉でなくても分かるようにしています。」
数値で客観的に理解することで、その情報を「行動の質」を上げるのに役立てられる。そんな工夫を感じる。
また、数値以外にも、練習中に気がついたことがあれば、練習を止めて「行動の質」を上げるための指摘をきちんとするなど、一貫した思いが言葉の端々から伝わる。
その思いは選手たちにも伝わっている。キャプテンの水谷留佳は
「監督は間違っていることがあったら練習を止めてでもしっかりと指摘してくれます。しっかりと練習中から教えてくれるので本当に良い監督さんだと思います。信頼しています。」
と話してくれた。監督の意図を理解しだした選手が、今度は自分で考え行動しだすと、どのような変貌を遂げるのか。沖縄尚学野球に注目だ。
編集後記
[stadium]尚学ボールパーク[/stadium]を出て、車に乗り込み、さとうきび畑を走り抜けながら、比嘉監督の「志は高く腰は低く」という言葉が何度か心に浮かんだ。選手達に、野球だけでなく、卒業後の人生に役立つ力をつけさせたいという思いが取材をしながらいたるところから伝わってきた。
「引き出しを増やすことをこの子達は野球を通してそれを学ぶだけで、文化系の子だったら他の色んな体験を通して学ぶと思いますし、我慢するとか解決する力とか、目標に向かって目標を叶えるための時間の使い方・配分とか、とにかくいろんなものを感じていって欲しいなと思います 。」
この愛情こそが比嘉監督の、指導者としての原動力だろう。
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