梶谷隆幸(開星~横浜DeNAベイスターズ)野球生命のピンチを乗り越えて
今年はアレックス・ラミレス監督の下、19年ぶりに日本シリーズに進出した横浜DeNAベイスターズの主軸を張る梶谷 隆幸外野手。開星(島根)高校から2006年・高校生ドラフト3位で入団して11年目、29歳を迎え俊足強打には円熟味を増している。では、そんな梶谷選手の高校時代にはどんな取り組みをしていたのか?当時のコーチ、現在は同校監督を務める山内 弘和さんに語って頂きました。
順風満帆の入学も、腰を痛めて野球生命のピンチに
山内 弘和監督(開星)
僕が梶谷には初めて会ったのは、彼が松江市立第二中2年の6月です。松江市では毎年、この時期に中学校の市総体があるんですけど、この大会に出場していました。最初の印象は「セーフティーバントをよくやる子だな」。ストップウォッチで実際に測ったりしていても2年生なのに足が速い子でした。
次の年の市総体でも見て、やっぱりいい選手だと思ったので、当時まだ僕は外部コーチだったんですけど、前監督(当時の野々村 直道監督)に「こういう子がいます」という話をして、野々村監督が声をかけた流れです。
この梶谷の年、1年生は豊作でした。現在は日本高野連のルールが変更になり、入学式を終えないと試合に出られませんけど、梶谷と最終的に3年の時に4番・サードでキャプテンになった太田 翔平。そしてキャッチャーの重政 達哉は3月末ぐらいから練習試合に出してました。ユニフォームが間に合っていないんで、その3人は白い練習着で。梶谷はそのころからやっぱり力のある子だったんで、入学してすぐの4月の中旬の大会にはもうレギュラーでした。
ところが、1年秋に腰を痛めて、松江市の大きな病院に行ったところ「ヘルニアだ」と診断されたんです。医者には「このまま野球をやっていたらもう普通の生活すらできない。野球をやめなさい」と言われて。本人も落ち込んで帰ってきました。
ひたすら取り組んだストレッチで獲得した「驚異の柔軟性」
梶谷 隆幸(横浜DeNAベイスターズ)
お父さんも一緒にヘルニアの報告をしにこられた時、僕はあまりに惜しいので、「この先生が同じ診断をされたのなら、従います」というくらい僕が信頼している松江市にある整形の先生のところに行ってもらったんです。
診断はやはりヘルニア。ただ「やめたからといって治る保証もない。うまく付き合いなさい」と先生が言われたんです。この言葉で、梶谷は野球を辞めずに済んだ。ドン底から這い上がれる方向に行けたかなと思います。
当時、梶谷はすごく身体が硬い選手。そこで整形の先生に、ストレッチのメニューを何個か作っていただきました。梶谷のすごいところはここからです。
普通なら、ちょっと腰が痛いのが楽になったらストレッチをやめるじゃないですか。でも彼はずっと柔軟をやり続けるんですよ。例えば少しでも時間はあるときに、足を伸ばしたりして。話をするときもストレッチをしたり、そういうところの時間の使い方っていうのは上手でした。そういうことができる選手というのはなかなかいません。
試合でもイニングの間の投球練習の時に、ファーストがゴロを投げていく時に、自分にボールが来ない間はずっとストレッチをしていました。「僕はこれをやっていなかったら野球ができないんだ」というような、取り組む姿勢が「高校生じゃないな」と感じていました。
結果、後に高校3年生の春ぐらいからプロのスカウトの方もグラウンドの方に来ていただけるようになって。梶谷は開脚して胸がベターっと地面につくのをアップの時に見られて、スカウト部長クラスが来られた時も「柔軟性がプロだよ」と言われていました。
ですから、今指導している子供たちにも言うんです。「怪我の功名だ」と。1年秋にケガをしてからの過ごし方が今の梶谷の結果に表れているんじゃないと思いますね。
[page_break:研究熱心さも高校時代から「プロレベル」]研究熱心さも高校時代から「プロレベル」
山内 弘和監督(開星)
梶谷や、後に高卒で福岡ソフトバンクホークスに入団した白根 尚貴(現:横浜DeNAベイスターズ)もそうですけど、彼らの共通点というのは「すごく研究熱心」というところです。
お父さんとお母さんが言っていました。「家に帰ってからは常に甲子園でベスト4やベスト8に入る強豪のチームの映像を見ている」と。彼の同級生はマー君(田中 将大投手・MLBニューヨーク・ヤンキース)ですが、彼は高2から全国制覇。そのVTRをずっと見ていたり、プロの左のバッターが、どうやって打っているんだというのを、巻き戻ししながら見ていたそうです。
「自分に合う、合わない」の選択も上手かったと思います。自分がビデオを見て取り入れていくというのも、もちろんありましたけど、自分が信じ込んでいることを貫くところがありました。自分で家で研究したものを、明日やってみようということでグラウンドに来て、やってみたけど違ったら、真似ないところは真似しない。いい意味で頑固な性格もあるんで。だから今プロで生き残っているのではないかと思います。
それと「1教えたら10ぐらいは考えてやってくれる」ようなところもありました。言った通りのことしかやらないのではなく、そこから自分で盛り付けしていました。
例えば守備で言ったら、後に同級生でセカンドを守る長野 竜二という選手がいたんですけど、ゲッツーの時の入りの合わせ方は二遊間で徹底的にやったりとかもしていました。うちは自主練が多いチームで、練習が終わった後にもノックで、併殺パターンを練習して、納得するまで帰らない。そんな感じです。
梶谷は高校時代、体重が付きにくかった子なんで、それなりの苦労はお母さんもされていたと思うんですけど、プロに入ってからも「体重が必要だ」とか「筋力トレーニングが必要だ」と言ってくれているのは僕らにとって嬉しいことですね。「これが先輩の意見、成功者の意見だ」と今の子たちに教えれられますから。
打撃を磨いて、WBCやオリンピック優勝メンバーになってほしい
最後の夏、甲子園初戦で負けた時(日大山形に2対6)は、泣いていました。ゲームに負けて悔しい思いはもちろんありましたけど、2年夏の島根大会の時に、先輩も含めて自分たちが軸となってやってた中、甲子園には行けず。梶谷ともう一人、後にキャプテンになる太田。打順でいうと1番と4番というこの二人が、もう泣きじゃくって「負けてすいません」と涙流してから、その一年後の甲子園だったんで。
自分たちにとっては甲子園出場を達成して、その甲子園の舞台の中でも上位を目指してやっているわけですから、そこで勝てなかったので、やっぱり泣いていました。
今のところは順調だと思います。ウチ(開星)で指導して頂いている「アスリート」(広島県広島市)の平岡 祥二トレーナーとも話をするんですけど、梶谷は筋力の数字がどんどん上がっていってる。金本 知憲さん(現:阪神タイガース監督)が2000年・広島東洋カープ時代にトリプルスリーを達成されたときの数字によく似てきていると言ってます。
本人も「1か月ぐらい向こうで宿を借りて筋トレをみっちりやる。一年間身体を使ってきたものをリフレッシュして、また冬トレーニングに行く」と言っているようですし、そういう部分でいうと彼は横浜DeNAベイスターズに行ってよかったと思います。今ではありがたいことにチームの顔になっていますから。
外野の守備を今はすごく買われていると思いますが、走力もある程度あるんで、僕が望むとすれば打撃。そして侍ジャパンに入って、WBCやオリンピック優勝メンバーになってほしい。以前、侍ジャパンに選ばれたときはショートだったんですが、今度は打撃を磨いて外野で侍ジャパンに入ってほしいと思います。
(取材・文=寺下 友徳)
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