東亜学園高等学校(東京)【前編】
1987年夏の甲子園大会で準決勝に進んだのをはじめとして、3度の甲子園出場、西東京大会で2度の準優勝など、東京の高校球界を代表する強豪校である東亜学園。しかし、練習環境は想像以上に厳しいものだった。それでもなぜ、30年近くの間、強豪校であり続けることができるのか。
厳しい練習環境
グラウンド全景(東亜学園高等学校)
野球部の練習場がある小平市のグラウンドに、指定された午後4時30分に行くと、グラウンドでは、打撃練習の金属音が鳴り響いていた。今年で監督就任31年目になるベテランの上田 滋監督は、「来た者から、いきなりバッティング練習です。キャッチボールもバッティング練習が終わってからです」と言う。
実際、上田監督と話をしている間にも、後から来た部員があいさつをして、打撃練習に加わる。これには、事情がある。
東亜学園の校舎は、西武新宿線の新井薬師前駅の近くにある。午後3時半に授業が終わってから、西武新宿線の花小金井駅まで電車で移動し、駅から少し離れた小平グラウンドに向かう。鉄道の移動時間が20分ほどかかるので、練習が始まるのは、どうしても午後4時半ごろになる。
ところが、グラウンドを全面使えるのは午後6時まで。そこからは、半面に分けてサッカー部と共用になる。それでなくてもグラウンドは、レフト側85メートル、ライト側60メートルとかなり狭い。全面使っても、練習試合すらできないような状況だ。
それが午後6時からはさらに半面になるので、内野の練習くらいしかできなくなる。そのため、来た人間からどんどん打撃練習を始めている。
私が行った日は、たまたまサッカー部がグラウンドを使用しなかったので、打撃練習が終わると実戦形式のシート打撃に入った。それでも、二塁手のすぐ後ろに右翼手がいるといった感じだ。
シート打撃を観ていると、何人かの選手は木のバットで打っている。「(中軸打者の)野瀬 祥一郎、乗松 良多、合田 琢哉、木下 雄太は、竹バットでも打ちますね」と上田監督は言う。理由の一つは、高校卒業後のことを考えれば、木のバットに慣れておいた方がいいということであるが、最も大きな理由は、ボールが外に飛び出すリスクを、少しでも減らすことである。
グラウンドはフェンスで囲まれているものの、周辺は住宅地、さらに大通り沿いは商業地になっている。
1986年の夏に甲子園初出場を決めた後、グラウンドには大勢の記者が来た。そのうちの記者の1人が、「グランドはどこですか」と聞いたという。「ここです」と言うと、驚いたそうだ。東京の場合、もっと環境が厳しい学校は少なくない。それでも、甲子園でベスト4の学校としては、最も厳しい部類だろう。
上田監督が忘れられない1年
上田 滋監督(東亜学園高等学校)
グラウンド横の壁には、第68回、第69回、第71回と、全国高校野球選手権の出場を記念したプレートが掲げられている。歳月により、かなり痛みが激しいものの、東亜学園の栄光の歴史だ。
ただし、連続出場が途切れている第70回大会は、甲子園はおろか、地方大会の成績すら残っていない。しかし上田 滋監督が、「あの1年があるから、今も高校野球をやっている」と熱く語るほど、思いの強い1年である。
1987年の夏、ドラフト1位で広島に入団した好投手・川島 堅を擁する東亜学園は、甲子園で旋風を起こしベスト4に進出した。ところが9月になって、春先に起きた一部の部員による部内の不祥事が発覚した。
今日では、現役選手の出場の機会を失うことが極力ないように、配慮がされるようになったが、当時は、連帯責任の傾向が強かった。1年間の対外試合禁止処分が下されたが、これは当時としても厳しい処分であった。それは、当時の2年生にとって、秋の段階で、翌年の夏の出場機会を失ったということである。
それでも上田監督は、「死ぬほど練習しました」と語る。練習は夜10時まで続き、ノックで1人でもエラーしたら、全員でグラウンド1周など、徹底的に鍛えた。翌年エースとなる1学年下の高平 幸治は、1日300球の投げ込みをした。
けれども、どんなに必死の練習をしても、1988年の夏、3年生となった彼らに、戦いの舞台はなかった。上田監督は言う。「負けて泣くのは、満足感。本当の涙は試合に出られないことなのです」
3年生の悔し涙をみながら、一緒に汗を流した後輩は、翌年、ブランクを跳ね除け、甲子園出場を果たす。しかも甲子園では、1回戦で土佐に勝った後、2回戦では、その年の選抜準優勝の上宮と対戦。0対1で敗れたものの、その大会屈指の熱戦を演じた。
中でもエース・高平の、後に巨人に入る元木 大介に対する真っ向勝負は、観る人の魂を揺さぶる名勝負だった。先輩の無念の気持ちに応える、後輩たちの奮戦であった。そして上田監督も、彼らの無念の思いを胸に刻んで監督生活を続けた。
もし、1年間の対外試合禁止が決まった時、投げやりになって無気力な日々を送っていたら、東亜学園は今ごろ、一時期強い時もあったという、過去形の学校になっていただろう。
もちろん、今の部員は当時まだ生まれていなかった。それでも近年、無念の思いをした部員の息子が東亜学園に入部し、親子二代で上田の指導を受けるようになった。思いは親から子へ、受け継がれている。
東亜学園にはこんな歴史があったのはご存知だろうか。とても無力感に陥りそうな中、当時の先輩たちは乗り越えて、強い東亜学園を築き上げたのだ。後編では、夏を見据えて選手たちはどんなテーマで、日々、練習に取り組んでいるのかを伺った。(後編に続く)
(取材/文=大島 裕史)