柳ヶ浦、明豊などが台頭して新時代到来となり大分商など古豪は…
戦前は大分商、戦後は津久見が牽引した大分の高校野球
戦前は大分商がリードしていたが、戦後は津久見の躍進で両校がリーダーシップをとってきた。いうならば、全県区の伝統商業校と地域密着型地元普通科校という図式である。津久見は春、夏それぞれ全国優勝をして、大分県の高校野球の存在を示してきた。
67年春に吉良修一投手(阪神)で全国制覇を果たすと、72年夏にも水江正臣投手(ヤクルト)で、スイスイと全国制覇を果たしている。学校の歴史としては、大分商の方が古いのだが、甲子園での実績では津久見がリードしながら県内の歴史を作ってきていた。
この二大勢力に割って入ってきたのが日田林工だった。林工というのも珍しかったが、初出場の73年に広島商に2ランスクイズを決められたのが悔しくて、いつか甲子園でこれをやり返そうという執念で、その3年後の春には機動力中心のチームを作り上げて、ベスト4まで進出したという原田博文監督の執念は見事だった。徹底した練習量でチームを鍛え抜き、したたかさと逞しさを兼ね備えたチームで甲子園に新風を巻き起こした。また、これがそのまま大分県の高校野球においても新時代の到来を告げることになったようだ。
追うようにして別府商や鶴崎工なども甲子園出場を果たした。
日田林工を作り上げた原田監督はその後同市内にある私立校の藤蔭(旧日田商)へ移ることになるが、そこでも徹底的に練習をして90年夏、95年春と甲子園に駒を進めている。大分商や津久見はもちろん、この藤蔭も古臭いくらいの泥にまみれた練習が特色になっていた。
いずれにしても、大分の高校野球は前述の通り公立の2校が圧倒的にリードしていた。他にも、別府鶴見丘や、野村謙二郎(駒沢大→広島、広島前監督)やその弟・昭彦(駒沢大→日本石油→駒大コーチ→環太平洋大監督)のいた佐伯鶴城など公立の存在が目立った。
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ここ数年は明豊、柳ヶ浦がリードしているが、絶対的ではなく群雄割拠状態
明豊は大分県を最もリードしていく存在となった
城島健司の出身校である明豊は別府大附だったのだが、新校名の明豊として01年夏の甲子園に悲願の初出場するといきなりベスト8に進出。その後は04年夏、08年春、09年は今宮健太(ソフトバンク)がいて春夏連続出場を果たしている。さらに11年夏、15年、17年夏夏と出場して大分県を最もリードしていく存在となっている。
大分県の私立校として先に全国的に知られているのは宇佐市にある柳ヶ浦だった。学校そのものは裁縫女子校としての歴史があって明治年間に設立している。柳ヶ浦に野球部ができたのは昭和も半ばを過ぎて共学となった年である。頭角を現してきたのは1969(昭和44)年に大悟法久志監督が就任してからだ。九州勢が大活躍した94年には鹿児島県の樟南に敗れはしたものの、ベスト4まで進出して大いに存在感を示した。
その後、藤久保茂己監督に引き継がれるが、このところは大分県の一番手的な存在となっている。タテジマの「Yanako」と表記されたユニホームとスケールの大きな野球はすっかり柳ヶ浦のカラーとなっている。
大分桜ヶ丘から校名変更した楊志館も07年に甲子園出場して、実力校ぶりを示したが、13年夏には16年ぶりに大分商が復活を果たしてまた、少し勢力構図が動いた。
15年秋季県大会を制した臼杵、16年春季大会を制した大分と、大会ごとに入れ替わるような状況にもなった。大分は16年夏にも出場を果たした。さらには、ソフトバンクのというより、日本を代表するスラッガーの一人である内川聖一を輩出している大分工も10年夏に出場。これに佐伯鶴城など、かつて実績を挙げていた学校なども入り乱れて、ある程度の強化をしている学校であればほぼ横一線という状態が続いている。
新鋭の情報科学や、12年夏に甲子園出場している杵築に新しいところで日本文理大附なども、機があれば上位進出は可能だ。
こうして、ここ数年の大分県は、明豊と柳ヶ浦がリードしながらも絶対的ではなくなってきて、まさに群雄割拠状態となっている。
気候も温暖で、どちらかというとのんびりした感じに思われる大分県。しかし、別府温泉という観光名所があることはあるものの、近辺には阿蘇山のある熊本や、かつての新婚旅行のメッカでもあり観光ということでは一枚上の宮崎を控えている。さらには産業や文明の点では福岡にリードされているということもあり、どこかで二番手に甘んじなければならないという状況。
そんなところが、何となく高校野球の勢力構図にも表れているのかもしれない。
(文:手束 仁)