早川隆久に憧れ続けた152キロ左腕・佐藤隼輔(筑波大)の高校時代【前編】
今年、26年ぶりの国立大ドラ1を狙う佐藤隼輔(筑波大)。最速152キロの速球、スライダー、チェンジアップと現代の投手では少ない球種ながら、首都大リーグで通算10勝、防御率1点台と圧巻の好成績を残している。そんな佐藤はいかにしてドラ1までかけのぼったのか。これまでの歩みを振り返っていきたい。
早川隆久に憧れた高校時代
佐藤隼輔(筑波大)
佐藤の野球の始まりは小学校4年生からだ。
「小学3年生まで通っていた広瀬小学校が6学年で1000人以上も通うマンモス校だったんです。そこから小学4年に上がるタイミングで、新たに愛子(あやし)小学校が出てきて、500人ぐらいが転校した中に僕もいました。『愛子スポーツ少年団』という少年野球チームも同時に出来て、僕の友達がその少年団が入ることになりましたので、それが野球の始まりです」
少子化の時代ではかなり珍しいが、これは仙台市青葉区の錦ヶ丘団地の開発により児童数が大幅増加した影響があるという。話は脱線したが、佐藤は小学校6年から中1に硬式の折立スパローズ(リトル)に所属し、全国制覇を経験。そして広瀬中学校からは軟式野球部に所属した。
そして仙台高に進むきっかけは広瀬中の同期10人が仙台高に進むことになり、「一緒に野球をやろうぜということで仙台高に進むことになりました」と語るように、佐藤の野球人生の前半は同世代の仲間に大きく影響されている。そして、ここまでの人生と佐藤の人となりを見れば、仲間に恵まれていることも分かる。
早くも才能を表し、県内でも指折りの左腕として注目されたが、コントロールに苦しんでいた時期があった。高校時代を振り返る上で、制球力を克服する期間が自身にとって印象深い期間だったと振り返る。
「2年秋にコントロールを崩して負けてしまったので、制球力が課題となりました。コントロールのズレを直そうと思って、バトミントンの羽をひもに吊るした棒をネットの横に立てます。的あてをやる形で投げていくのですが、この練習の目的はフォーム固めとコントロールを磨くこと。3球連続あてたら、2.5メートル下がる。繰り返す中でフォームを固める練習を行いました」
的を当てるつもりでやると、必然的にフォームがコンパクトになる。ただ、動きを小さくして投げる練習は手投げになりやすいリスクがある。佐藤はそれを理解した上で、あくまで無駄が大きいフォームを省くために練習を行いつつ、身体をしっかりと使えているのかをキャッチボール、シャドーピッチング、投球練習でチェックを行った。
その時から憧れていたのが早川隆久だった。
「自分が高1から高2年に上がる春休みのときに、早川さんの投球を見て、1つの目標となりました。自分とタイプが似ていて、コントロールを重視して投げる方でしたので、自分が目指す投手像はこれだなと思いました。そこから甲子園で活躍する早川さんの記事を見てきました。またプロ野球の今永昇太さんが投げ方もにていたので、憧れでした」
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取材中の佐藤隼輔(筑波大)
こうして意識を高く持って練習を行うようになり、大きく成長した佐藤は140キロを超える大型左腕に成長。制球力も高くなり、県内では圧倒的な投球ができるようになった。3年春の地区予選の仙台育英戦で好投。
「一番楽しかった試合でした。自信がついたかというよりも、チームとして戦っていく感じがあって、楽しかった印象が強いです」
仙台育英戦の好投で評価を上げた佐藤は、最後の夏では41回を投げて、55奪三振の快投を見せた。「調子はよく悪くもなくですが、結果としては良い形で終わることができました」。
最後の夏が終わってプロに進むか、進学かで悩んだ。両親、高校野球部の監督と相談した結果、筑波大進学が決まった。筑波大での目標はプロで勝負できる確信を持って実力をつけることだった。
「ベスト8で終わったのと、注目されたのは仙台育英戦からなのですが、まだ当時の自分には、高卒プロにいくだけの実績も自信も足りなかったですし、迷いはあったんです。プロにいくというのは、そういう迷いがあってはいけないと思ったので。もう一度、成長してからプロに行きたいと思いました」
筑波大に選んだことは改めて正解だった。
「自分自身、やらされることよりも多少、考えて、自分に合った形を見つける方法が合っていたので、筑波大では川村監督をはじめ、いろんな知識が深い方々に指導してもらうことで技術は深まったと思います」
後編では筑波大の4年間ではどう成長していったのかを紹介したい。
(記事=河嶋 宗一)