龍谷大平安に現れた俊足好打の1番打者・中島大輔(龍谷大平安)【前編】
3年ぶりのセンバツ出場となる龍谷大平安。昨夏の経験者が少ない新チームで新戦力として台頭したのが中島大輔(新3年)だ。夏まではベンチ外だった中島だが、新チームになって台頭。1番センターの座を掴み、チームの甲子園出場に貢献した。
50m走が5秒9という俊足の中島はどのようにして定位置を獲得したのか。表舞台に立つまでには知られざる苦悩があった。
甲子園を夢見て名門校の門を叩いた
快速を飛ばす中島大輔(龍谷大平安)
中島が生まれ育ったのは和歌山県日高川町。父親も元高校球児で中島も幼い頃から野球に興味を持っていた。元々は軟式野球から始める予定だったが、父親の高校時代の先輩が和歌山御坊ボーイズの監督だった縁もあり入団。小学1年生の冬から硬式野球に取り組むことになった。
小学生時代は野球と並行して陸上の短距離も行っていた中島。その俊足ぶりは当時から有名で、県内では負けなしだったという。小学5年生の時に100mで全国7位になっているが、この時に初めて同世代の選手に負けたそうだ。
陸上でも実績を残していたが、中島が目指したのは[stadium]甲子園[/stadium]。中学では野球に専念すると、中学硬式野球の日本一を決めるジャイアンツカップで3位という好成績を収めている。
中学で実績を残した中島が進学先に選んだのは京都の龍谷大平安だった。その理由をこう語る。
「小さい頃から県外の強豪校に行って甲子園に出るというのが夢でした。龍谷大平安が甲子園に出ているのを見て、カッコいいなと思いました。甲子園に出ている回数も多かったのでここに行きたいと思いました」
憧れの[stadium]甲子園[/stadium]を夢見て名門校の門を叩いた中島。しかし、待ち受けていたのは怪我との戦いだった。
「3月の終わりにここに入ってきましたが、もう4月の頭には左膝が痛いなと思っていました。左膝を診てもらったら離段性骨軟骨炎。曲げて力を入れた時に軟骨と大腿骨がこすれ合っている状態でした。軟骨がほぼ外れかけていたので、それを止める手術をしました。11月末頃に復帰したんですけど、その後すぐに左足を骨折しました。気付くのが1ヶ月遅れてしまって本格的に復帰したのは2月の終わりくらいです」
最初の1年は怪我でほとんど野球ができなかった。試合に出るどころか練習すらままならない状態。公式戦で活躍する先輩や同期を尻目に、復帰を目指して黙々とリハビリを続けていた。
ショートから外野手にコンバート!
「1番センター・中島」で活躍
2年生になって元気に練習できるようになったが、1年目の出遅れが響いてメンバー争いに絡むことはできない。[stadium]甲子園[/stadium]通算100勝を達成した夏の甲子園では、アルプススタンドからその様子を見守っていた。
「水谷祥平(新3年)や北村涼(新3年)は試合に出ていて同級生としてカッコいいなと思いましたし、同時に悔しいと思っていました。自分の代では絶対にレギュラーを取ってやると思っていました」
同期に先を越された悔しさはあるが、新チームに向けて中島は気持ちを切り替えていた。夏の[stadium]甲子園[/stadium]期間はメンバー外の1、2年生で紅白戦が行われることが多かったという。ここで結果を残してきたことで「レギュラーが近づいたのかなと思いました」と秋に向けて手応えを感じていた。
そして新チームとなり、中島はレギュラーの座を掴む。これまではショートがメインでセンターもこなすという立場だったが、夏が終わってからは外野手に専念するようになった。コンバートに対してはどう思っていたのだろうか。
「絶対にショートをすると思って入ってきたんですけど、足があるのでセンターを守ることがあるかもしれないというのはわかっていました。センターになってからはセンター一本で頑張ろうと思いました」
ショートへの未練を捨て、秋に「1番センター・中島」が誕生。中島にとって初めての公式戦となる秋季大会に挑んだ。
「とても緊張した」と公式戦デビューを振り返ったが、京都大会では打率.409の活躍でチームに貢献。「それなりにチームに貢献できた部分はあったと思います」と本人も納得の出来だった。
しかし、近畿大会は「ピッチャーのレベルが上がった時に打てない試合も続いて、自分の力のなさを感じました」と壁にぶつかる。
前編はここまで。後編では近畿大会で感じたことや偉大な先輩についてに語ってもらった。
文=馬場 遼