2年目で覚醒の兆しを見せる村松開人(中日)!派手さはなくても、「順応力」は学生時代からずば抜けていた!【主筆・河嶋宗一コラム『グラカンvol.19』】
明治大時代の村松開人
皆さん、こんにちは!! 『高校野球ドットコム』の河嶋です! 今回は中日期待の2年目・村松 開人内野手(静岡-明治大)を取り上げていきたいと思います。1年目から98試合に出場して、2年目は30試合に出場して、100打数33安打、打率.375を記録し、覚醒の兆しを見せる。
振り返れば、プロ入りするまで、高校、大学でもしっかりと順応して活躍出来る選手でした。
明治大で活躍するために目指してきたのは「確実性」
村松選手は中学硬式の強豪・島田ボーイズ出身で県内から注目される選手でしたが、名門・静岡に進みます。その理由は、兄の遼太朗投手が静岡OBだったこと。また、村松選手の中学3年生の時は堀内 謙伍捕手(楽天)、鈴木 将平外野手(西武)などがいた超強力打線として春夏連続で甲子園出場していました。静岡高校の入学が決まると、1年生から主力選手となり、2年生となった17年のセンバツ出場。そして翌18年のセンバツにも出場します。当時からバットコントロールもよく、軽快な遊撃守備を見せていた選手でした。ただ当てるだけではなく、しっかりと振り抜いて強い打球を飛ばしていました。
静岡は基本的に進学の方針ですが、村松選手は高卒プロを目指していました。ただ、足首を骨折したため、プロ入りを断念。それでも明治大から推薦入学が決まり、大卒プロを目指しました。
明治大に進学すれば、先輩、同級生、後輩にも高校野球で活躍してきた逸材たちがライバルになります。大学2年まではレギュラーを奪うことはできませんでしたが、その中でも村松選手は技術的にも、肉体的にもパワーアップしていました。高校から体重も10キロ増。高校時代、怪我がちだったため、柔軟性を高めるためのトレーニングを行いました。そして守備では、確実性を意識し、捕球ドリルを何度も繰り返し、上達を見せました。22年1月に村松選手の取材を行いましたが、取材日の練習では他の選手と比べても持ち替えの速さが誰よりも速かったことを覚えています。
大学3年春から怪我した4年春を除くと、すべて打率3割以上を残しました。東京六大学で他の選手たちに負けないために「確実性」が生きる道だと考えました。
「東京六大学で活躍するのは、安定して結果を残せることが大事だと思っていて、自分のような選手には、安定的な守備を見せたり、打撃でも打率を残したりすることが、大事だと思っています。明治大では、どういう選手になるべきなのかを想像して取り組んできました」
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